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REVIEW 2016~2017

岩渕貞太ソロダンス2017『missing link』
2017年12月1日(金)~5日(火)東京・こまばアゴラ劇場 12月16日(土)~17日(日)岡山・上之町會舘

                       文:北里義之

                       ー動物的な、あまりに動物的な

                         ステージ上手には、楽屋への出入口を塞ぐように吊るされた大きな金属

                        板が照明の光で金色に輝き、舞台中央には、ふたつの円を部分的に重ねた

                        形に盛られた茶色い土が盛られ、そのうえには簡単に折り曲げることので

                        きる薄い金属板が同じ形にカットされて乗っていた。前者は、土方巽『肉

                        体の叛乱』(1968年)で使用された真鍮板として、また後者は、岩渕が大

                        きな影響を受けたと公言する室伏鴻が公演に使った塩の山に相当するもの

                        であり、いずれも舞踏史に記された記憶の引用になっている。

 公演冒頭、暗闇のなかで金属板の擦れる音がする。しばらくすると、大きく左右に揺れる金属板と、前屈姿勢で動く大柄な踊り手の姿が浮きあがってくる。岩渕の踊りは、動物園の檻に閉じこめられた獣が、両手足を突っ張るように大きく伸ばしてはいきどころなくあたりを徘徊するような動物ぶりだった。猛獣がじゃれつくように金属板にからみついたり、両手を床について身体を支え、ホリゾントに両足を投げあげて壁のうえを歩いたり、四つんばいの姿勢で頭を下げては、身体を突きあげる激しい感情に苦痛の声をあげ、赤ん坊がガン泣きするような咆哮をくりかえす。最後は、金属板を小刻みに打ち鳴らし、ジャンプしては床をたたき、胸板をたたき、骨格や筋が生々しく浮き出した身体を見せつけるように両手をあげて伸びあがるなど、大きな動きをしていくなかでの暗転、終幕となった。公演タイトル『missing link』は、室伏の<外>の思考を継承しようという意志を強く感じさせる。獣のように床を這う岩渕、言葉にならない泣き声のような雄叫びを発する岩渕は、室伏のスタイルや方法論を受け継ぎながら、同時にそのものと闘う姿勢、まさしく「他者の侵入を許しながらも抵抗」する姿を、そのまままるごと踊ってみせた。

 とはいえ、両者のダンスには重要な相違点がいくつもあり、この相違が岩渕のダンスを性格づけているともいえるだろう。たとえば、(1)室伏が全身をシルバーに塗ることや塩の山を使用することなどは、身体の物質性とでもいうべきものを表面化させ、観客に感覚しやすくするための装置になっているが、ここでの金属板や土は、記憶の引用であり、身体を物質化させたりはしないこと。(2)ぼそぼそとぼやく室伏の語り、動作とともに発せられるかけ声や異音などは、あるものは言葉を剥ぎ取られた声の物質性であり、あるものはそうした物質性そのものが「演出」であることを暴露さえするものだが、岩渕の発する異形の声は、身体の奥底から沸き出す生命的なるものの表出であり、感情を帯びていること。(3)くりかえされる室伏の床への転倒が、ある身体の状態から別の状態へと動きを切断することを意味するのに対し、床を這うことの多い岩渕の動きは、そうした切断点を持たず、あくまでも地表を動きまわる動物の段階にとどめられていることなど。これらの本質的な相違点は、岩渕は岩渕の道をたどって室伏を継ぐしかないことを示すだろう。(2017年12月5日(火)初見)

イデビアン・クルー 『肩書ジャンクション』
2017年10月20日(金)~22日(日) 
東京芸術劇場 シアターイースト

 文:坂口勝彦

 

 ──歓待の視線、捻れる空間──

 

 井手茂太・イデビアン・クルーの新作『肩書ジャンクション』を見ていると、ダンサーたちの視線の交錯がダンスを生み出しているのではないかと錯覚するほどに、視線が動きを先導しているように見えた。視線自体は柔らかくて、決してキッと見つめる鋭いものではないのだけれど、視線を軸として体が動いていると見えるほどの力がある。ダンサーたちは幾度も相手と視線を交わしながら、その仕草自体が心地よいダンスを生み出していた。もちろん、ダンスでもバレエでも視線は重要だけれど、これほど主導的な役割を持たされることは少ないように思う。

 井手の振付は、高く飛び上がるわけでもなく、足を突然すっくと掲げたりもしないのだけれど、体を取り巻く空気の一部も一緒にフワッと動かしてしまうような力がある。だから見ている者まで、一緒に気持ちよく動かされてしまう気になるのだろう。そこに視線の力が加わると、いっそう大きな効果が生まれる。目というのは、自分が見るだけでなく、誰かが見ている時もとても大きな意味をもつものだから。

 イデビアン・クルーに今回が初参加のイデビアン新人の3人、酒井幸菜と後藤海春と三橋俊平は、そうした視線を維持するためにいくぶん体が固くなるほどに見えた。イデビアン・クルーの初期からのメンバーで今作品にも出ているイデビアン大御所の斉藤美音子や中村達哉にとっては自然な仕草なのだろうが、イデビアン新人にとってはかなり難しい所作なのかもしれない。

 井手はその3人の新人のためにくっきりと印象に残る役割を設けていた。最初のシーンでは、イデビアン中堅の福島彩子と新人の酒井幸菜が井手と一緒に横一列に並び、腕と上体をゆったりと揺らしながら、ふわふわ漂うように踊る。ふわふわ見えても実は鋭い針を持っているぞ、とでも言うかのように時々クイッとアクセントをつける。それは新人の酒井をお披露目するためのシーンのようにも見えた。その後も、酒井が突っ込んできて動きのきっかけを作ることが幾度もあった。

 もう一人の新人の後藤海春は、ツンとした表情を崩さずに、舞台上を8の字状に、何が起ころうとも邪魔されようとも動じることなく歩き続けたりする。ひとりだけ集団からはずれた動きを無表情で行ったりもしていた。そんな後藤は、イデビアンの姉御役の斉藤美音子の後釜を任せられているのだろうか。

 イデビアン大御所の斉藤や中村は、今回はわりと控えめな位置で支えているように見えた。いつも心を込めて観客をもてなそうとしている井手とイデビアンのメンバーは、イデビアン初参加の新人をも心を込めて歓待している。

 井手の作品の多くは、ダンスで一気に盛りたてておいて、中盤で小芝居を挟むことが多かった。この作品でも、ちょっとした仕草からベジャールの『ボレロ』の振りが生まれたり、山口百恵がマイクを置く仕草が伝染していったり、ドライブのシーンが優雅なダンスに変わったり、井手自身が楽しみながら作ったことがうかがえる小ネタがたくさんあったが、どれもが小気味よいダンスへと導かれていた。小芝居でダンスの流れが途切れることがない。もしかしたらこうした作品は、井手の作品としては意外と珍しいかもしれない。

 『肩書ジャンクション』は、紛れもなく今までの井手の方向を推し進めた作品であるだけでなく、今まで以上にダンスに本気で取り組んでいる気が伝わってきた。もう余計なことはしていられないという切迫感が後押ししているのだろうか。

 井手は最近、かつて三波春夫が歌った東京五輪音頭の振りのリメイクを依頼された。妥協せずに細部のひねりがきいていて非常に凝った振付だ。もしかしたら、井手が東京オリンピック開会式のダンスを演出することになることもあるのかもしれない。それを決めるのは誰なのか知らないが、もしそうなったとしたら、ロンドンのアクラム・カーンのようなモダンで崇高な美しさでもなく、リオのデボラ・コルカーのようなサーカス的な楽しさでもなく、クスリと笑えるようなダンスや、皮肉の効いたきついダンスで、クイッとねじ曲げて、世界を、そして日本を、あっと言わせてもらいたい。

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振付・演出:井手茂太

出演:斉藤美音子 菅尾なぎさ 福島彩子 後藤海春 酒井幸菜 中村達哉 原田悠 

   三橋俊平  井手茂太

KYOTO EXPERIMENT 2017 (京都国際舞台芸術祭)
2017年10月14日~11月5日​

これまでの実績を重ねての総合的な舞台芸術祭に加え、

日本、中国、韓国のダンサー・振付家の登場、充実したアーティスト・作品に出会う        

文:竹田真理

金氏徹平『tower (THEATER)』 2017 ロームシアター京都 撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

Teppei Kaneuji, tower (THEATER), 2017, ROHM Theatre Kyoto. Photo by Yuki Moriya, courtesy of Kyoto Experiment

ハイナー・ゲッベルス×アンサンブル・モデルン『Black on White』 2017 京都芸術劇場 春秋座 撮影:井上嘉和 

提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

Heiner Goebbels & Ensemble Modern, Black on White, 2017, Kyoto Art Theater Shunjuza. Photo by Yoshikazu Inoue, courtesy of Kyoto Experiment

トリシャ・ブラウン・ダンスカンパニー『Anthology: Trisha Brown』 2017 京都府立文化芸術会館 撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

Trisha Brown Dance Company, Anthology: Trisha Brown, 2017, Kyoto Prefectural center for Arts & Culture. Photo by Yuki Moriya, courtesy of Kyoto Experiment

8回目となる京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT 2017。南米や地元京都の作家の紹介といった当芸術祭ならではの蓄積の上に、今年京都が東アジア文化都市に当たっていることから初めて東アジアのアーティストを招聘するという新しい軸があり、美術、音楽も多彩に加えた総合的な舞台芸術祭の印象を残した。焦点が分散する恐れもある中、実験性をどう担保するか。ぎりぎりのプログラムが組まれている。

   

美術から舞台作品を立ち上げたのはオープニングの『tower(THEATER)』。京都の彫刻家、金氏徹平がドローイング等で手掛けてきた想像上の構造物“タワー”を舞台上に出現させた。(10月14、15日、ロームシアター京都 サウスホール)。タワーの壁には大小の孔があり、奇妙なモノが出入りする様子は呼吸する有機体のよう。孔から産み落とされるかのように登場する青柳いづみが福永信のテキストを演じるほか、岡田利規のテキスト、contact Gonzoのワイヤー・アクションなど、タワーに触発されたナンセンスな遊びが破天荒に展開。モノを鳴らしての珍妙な音楽はやがて祝祭感にあふれたコーラス&バンド演奏へと発展した。美術、建築、音楽、演劇、身体パフォーマンスから2010年代の想像力を結集した、今年のKEXを象徴するプロダクションといえる。

  ハイナー・ゲッベルス×アンサンブル・モデルン『Black on White』は音楽から演劇へと越境した往年のミュージック・シアターで、初演時の演奏家の多くが今回出演した(10月27,28日、京都芸術劇場 春秋座)。18人の演奏家たちは楽器を手に舞台を動き回るパフォーマーであり、太鼓に玉を投げつけるアクションや朗読、歌唱をこなし、中心のないアンサンブルを展開する。クラシック、ポピュラー、その他音楽は多種多様で、途中発語される日本語も音として味わい深い。テキスト朗読はゲッベルスの盟友である劇作家ハイナー・ミュラーへ捧げられている。舞台装置の変換は20世紀ドイツの激動の歴史を示唆していると感じた。ヨーロッパの上演芸術の厚みを感じさせる舞台だ。

  このほかドキュメンタリーによる独自の手法を用いる村川拓也、今回ただ一人戯曲執筆から取り組みながら、その上演は従来の形式を超えている神里雄大/岡崎藝術座、宮廷芸能を現代に再生する意味を問うパク・ミンヒなど、もはや既存の舞台作品のスタイルは一掃されており、8回の開催を通して観客もポストドラマ演劇のリテラシーを身に付けてきた感がある。提示されるテーマは実に多様だが、ポストトークのほか関連のトークの場もその都度設けられ、鑑賞体験を一過性で終わらせない姿勢は一貫している。

さて、ダンスに焦点を絞ってみると、20世紀後半の舞踊史の核心に触れる画期的なプログラムが並んだ。すべてが公式演目ではないが、関心が高まりを見せるアメリカのポストモダンダンスについて、イヴォンヌ・レイナーとトリシャ・ブラウンという二人の中心的な振付家に偶然とはいえ焦点が当てられた意義は深い。また土方巽に想を得た新作も公式プログラムに登場した。

KEXの関連企画として開催された「イヴォンヌ・レイナーを巡るパフォーマティヴ・エクシビジョン」(10月11~15日、京都芸術劇場 春秋座、企画:中島那奈子)は、レイナーの代表作にしてポストモダンダンスのもっとも議論される作品『Trio A』を2017年の京都で再構築するというものだ。全体はダンス・アーカイヴの概念に即して映像上映、資料展示、ショーイング、レクチャーで構成されている。ショーイングの出演者は年齢の幅のある、またダンスの出自の異なるダンサーが6名。まず神村恵と西岡樹里が同一の振付をカノンで踊り、次に能楽師の高林白牛口二と寺田みさこが「フェイス・トゥー」即ち、振付を踊る寺田の正面と常に向き合うように、袴姿の高林が動きを追う。高林は70代、前傾した構えで颯爽と動く。能楽師の出演は『Trio A』上演史上初めてだろう。舞踏の桂勘と独自の舞手であるボヴェ太郎がユニゾンで踊るところで70年代風のポップスが入り(これがグッとくる)、最後に先のダンサー達も加わり、順次去っていく。振付自体は映像で知る『Trio A』そのままで、技巧性や見せ場を排した日常的な語彙で綴られ、今日のコンテンポラリーダンスと地続きであると感じられた。一方、今回の6人の人選は異なる経験、出自などを含めた「多様性」の価値観を映し出しており、「平等」を掲げた60年代当時とはダンスにおけるデモクラシーの内容も変遷を見せている。ティーチングを介して振付を受けたダンサー達は口を揃えて「振り写しは厳密を極めた」と語っている。これは同時上演された『Chair/Pillow』の出演者たちも同様で、ダンスの継承の議論にとって興味深いところだ。身体の位置、角度、タイミング等が精密に指示され、フレーズを作らず、フラットに踊ることを、振付が求めている。継承されるもの、変化するもの、新たに発見されるものについて多くを考えさせられる。

 

イヴォンヌ・レイナーが『Trio A』の一点からダンスを思考し続けているのに対し、トリシャ・ブラウンは『Accumulation』で示したミニマル/ミニマムな思考をシアトリカルに展開した。

 

昨年春のKYOTO EXPERIMENTで伝説が解かれるように60年代の作品の上演を果たしたトリシャ・ブラウン・ダンスカンパニーが、その後のブラウン逝去を挟み、80年代以降の3つの劇場作品『Anthology: Trisha Brown』をもって再度登場した(11月1,2日、京都府立文化芸術会館 ホール)。ブラウンの劇場作品については議論のあるところで、ジャドソンでの実験精神を置き去りにしているのではとの指摘もある。だが昨年の初期作品群に思考の原型を見た我々の眼は、今回、ミニマルに分節された身体がいかにムーブメントを発展させていくのかを、驚きと納得をもってみつめたのではないだろうか。

  『Opal Loop/Cloud Installation #72503』(1980)は中谷芙二子の霧の彫刻と共同で、浮遊するもの、不確かなものの中にある物理的な要素を可視化する。4人のダンサーは軽いホップと振り子のような手足のスイングを繰り返しながら、互いの位置関係を複雑に変えていく。身体の部位はバラバラに動くが、重力と遠心力と運動の慣性により全体にゆったりとした抑揚が生じ、振付と配置の幾何学的なパターンと、自然物の生成のオーガニックな関係性が浮かび上がる。音楽はなく、衣装のクールな色、霧、照明が抽象度の高い空間を作り出している。

  『Groove and Coutermove』(2000)は音楽にカジュアルなジャズやポップスを使った快活な作品で、8人のダンサーがカラフルな衣装で踊る。四肢の長さや歩幅を尺度に動きを精緻に構成し、集団が離合を繰り返し、絶えずシーンが変化する様子は、我々の知るアメリカン・ダンスそのものだ。抽象的で少し退屈にも思えたアメリカのポストモダンダンスだが、ミニマリズムを経て、還元されたムーブメントから展開したものであることがよく理解され、大変興味深く見た。歴史と現在の接続を見るような体験だった。

  『L’ Amour au theatre』(2009)、音楽はジャン=フィリップ・ラモーの組曲「イポリートとアリシ」。曲ごとに振付のモチーフは異なるが、すべてコンタクトから起こした動き。デュオ、トリオ、カルテット、クインテットと編成を変え、それぞれのタスクから新鮮な語彙が生み出される。古典音楽が紡ぐ時間軸の全てを振付で埋めていこうとするような、尽きせぬ創造性を感じさせた。ここから「もはや踊るべきものはない」といったニヒリズムへは向かいようもない。ポストモダンダンスへの世界的な関心はヌーベル・ダンスが終息しノン・ダンスが現れ始めた時期に重なるという。ダンス史の絶えざる更新の中で、アメリカのポストモダンダンスが見直されつつある。

ジャドソン教会派が活動を始めた60年代、日本では舞踏が生まれた。マルセロ・エヴェリン/Demolition Incorporada『病める舞』は土方巽のテキスト『病める舞姫』に想を得た新作だ(11月3,4日、ロームシアター京都 サウスホール)。舞踏の伝播はあらゆる「欲望」と「誤解」とともにあるといわれる。土方舞踏とその革新的な思想に強く魅了されたエヴェリンは、日本でリサーチを重ね、結果、土方の読解でも再構築でもない、応答としての舞踏のパースペクティブを、自らの身体パフォーマンスの文脈に引き寄せて提示する。ソデを取り払った舞台に点在する10人のパフォーマーに、白塗りやガニ股は見られない。汚辱にまみれた身体の反転としてのヒロイックな舞踏ではなく、「外部」に放逐された身体の荒涼とした風景が現れている。過去2回のKYOTO EXPERIMENTでエヴェリンが示してきた、近代の規格の外にある想像力としての野生が、土方舞踏の反近代性と遠く呼応している。パフォーマーらは局部を晒し、終盤には『禁色』に言及した男性2人の場面もある。だがこれまでのエヴェリンに見た身体の衝撃からすると、抑制された印象だ。過去2回のように劇場以外の場所で見てみたい気もするが、この舞台の寂寞とした広さの中でこそ、文字通り土方への距離と、飛び火した舞踏の予測不能の受容の可能性が開かれていたのかもしれない。

最後に、ダンスの未来に向けたプログラムとしてRAM CAMP in Kyoto 2017に触れよう。山口情報芸術センター[YCAM]が2010年から開発しているRAM(Reactor for Awareness in Motion)は、身体とデジタル環境の相互的なリアクションによって、知覚と運動の拡張されたフェイズを開こうとするもので、ここから新たなダンス言語の開発の可能性が探られる。KYOTO EXPERIMENTの関連企画として設けられた5日間のキャンプでは、日本、中国、韓国のダンサー・振付家とプログラマーがRAMのツールを使用したダンスの創作を試み、その公開プレゼンテーションが行われた(10月29日、ロームシアター京都 ノースホール)。実際のプレゼンではダンサーの動きと、これに対応するグラフィックの映像を同時に見る。相関の見えづらいチームもあったが、日中韓の若いアーティストたちが協働し、3か国語+英語が飛び交う現場の熱が感じられる。目指す先は開発された新しい言語によるダンスを、映像なしで鑑賞することだろう。そのときダンスはこれまでにないフェイズで展開しているはずだ。企画趣旨を語るプログラム・ディレクターの言葉には現在のダンスへの危機感が滲み出ていた。即ち、普段話している言語をもとにダンスを組み立てていくことには限界があるのではと。今の言葉では分化できない、意識の向こうにあるものを、このプロジェクトが引き出してくれるかもしれない。

Batsheva Dance Company 「Last Work  – ラストワーク」
2017年10月28日-29日

バットシェバ舞踊団(芸術監督:オハッド・ナハリン)

​彩の国さいたま芸術劇場

 文:三森八重子

                           オハッド・ナハリン率いるバットシェバ舞踊団が、新作「Last Work

                                                                                – ラストワーク」の公演のため来日した。本邦初演となる、彩の国さ

                                                                                いたま芸術劇場(公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団)で行われた公演

                                                                                を観劇した。

                                                                                

                                                                                幕が開くと、舞台の後方で、青いドレスに身を包んだ金髪の女性が舞

                                                                                台の左手を向いて舞台に組み込まれたトレッドミル上を走り続けてい

                                                                                る。この女性は70分間の上演中、同じペースでわき目も降らず、一心

                                                                                不乱に走り続ける。時を刻むように。

                                                                                やがて男性ダンサーが現れ、ゆっくりと手足を伸ばし始める。GAGA

                                                                                メソッドで鍛えられた体躯が、何かを確かめるように、のびやかにし

                                                                                なやかに動き始める。

舞台の作りはシンプルで、両側に12~13の木製扉を取り付けたの出入り口があるだけだ。そこからダンサーが次々に飛び出してきてソロを踊る。一人の女性ダンサーはおもむろに片足を180度近くまで高く上げキープする。あるいは別のダンサーはテンポよくキビキビと動き回る。GAGAはナハリンが考案したダンスメソッドであり、フィロソフィーであるが、ナハリンはダンサーに独自性を持つことを奨励しているという。それぞれのダンサーがそれぞれのGAGAを踊る。ダンサーはやがて集団となり1つに固まる。

「ラストワーク」にはナレーティブなストーリーはない。作品の中で、多彩なバックグラウンドを持ったダンサーが、多様なシーンを描く。

 ‐あるシーンでは、全ダンサーが舞台の一番奥まで移動し、一斉にそれまでの茶色の衣装から白色の衣装の生着替えをする。

 ‐男性は黒いマントを羽織り、マントを着た男性ダンサーは祈祷師を演じる。

 ‐男女の営みが多様なシーンで描かれる。ある時はコミカルに、あるときは欲情的に、ある時は暴力的に描かれる。

 ‐GAGAを極めたダンサーにしかなしえない、軟体動物のような、あるいは蛇のような動きで舞台を這うように動き回る。

 ‐軍隊の訓練のような動きがあちこちに挿入されている。

シンプルな舞台の中で照明が場の印象を作る。幕開けの薄明かりから、青みがかった白へ、やがて暖かなオレンジ色へ、そして明るい白色へと変化すると空気が一変する。

4人の男性が後方に登場する。一人は白色の旗を振り、もう一人はがなり立てるような鳴り物を打ち鳴らし、もう一人はマイクを持って歌いながら梱包用のテープをテント状に巻き付けており、最後の一人は背を向けて何かをこすっている。

ガンガン打ちならされる音楽に合わせ、GAGAダンサーたちは輪になって激しく踊る。

やがて4番目の男が振り向くとマシンガンを手にしており、マシンガンが火を噴く。

ダンサーはパニックに陥り立ち尽くす。

すると歌っていた男がマイクを捨ててガムテープでダンサーたちを一人ずつぐるぐる巻きにして、やがて全員を固定してしまう。男は最後に青色のドレスを着て走っている女性もガムテープで結びつけ、彼女に白旗を渡す。青色の女性はそれでも白旗を掲げながら走り続ける。

ナハリンは作品の狙いや趣旨について多くを語らず、解釈は観客にゆだねられている。

本作品は、ナハリンの故郷であり、活動のベースであるイスラエルが置かれた中東の地政学の複雑さ、それに対するナハリンの強い思いが示されている。

GAGAダンサーの圧倒的な技術と表現力、哲学が改めて示されたこの作品は決してナハリンの「Last Work」ではなく、「Lasting Work」であると確信した。

篠原聖一バレエ・リサイタル
​第10回 DANCE for Life 2017
2017年10月1日(日)メルパルクホール(東京)

文:新倉真由美

 篠原聖一が2001年にスタートさせた「DANCE for Life」第10回の記念公演は、下村由理恵バレエアンサンブルのダンサーを中心に、多くのゲストダンサーが花を添えた。演目は第1回で演じた「グラズノフ パ・ド・ドゥ」「Out」そして2003年2006年に続いて3回目の上演となる「ロミオとジュリエット」。リサイタルを通じ一貫して運命、宿命に導かれながらも生き方を模索している人間を描いてきた篠原が厳選した作品群。

 

「グラズノフ パ・ド・ドゥ」は下村と森田健太郎が2001年に初演、派手さはないが凛とした品格が求められる難しい作品に、奥田花純と浅田良和が挑んだ。「Out」は初演時は女性3名が踊ったが、今回男性3名を加え、スタイリッシュな空間を作り上げた。バッハの曲に合わせ、ドアを開けて外に飛び出していく様を描き、ダンサー各々の個性が浮き上がる作品。

 

「ロミオとジュリエット」は数あるグランドバレエの中でも演劇的要素が強く、踊りのテクニック同様の、また時にはそれ以上の表現力が求められる。下村は演技力を遺憾なく発揮し、踊りやマイムと共に繊細な感情がほとばしり、あたかもセリフが聞こえてくるようであった。天賦の才能と恵まれた容姿に加え、飽くなき探求心と努力で、運命の恋に身を投じたヒロインを見事に演じきった。ロミオ役の今井智也も健闘し、タイトルロールの二人が真摯に役に取り組んだ成果が見られた。ゲストダンサーの中ではマキューショ役の浅田良和が光り、2幕で熱演した少女たちが悲劇の舞台に温かみをもたらせた。華美な装飾をを排除した舞台美術も新鮮で効果的だった。

しかし篠原版の作品の最大の特徴は、彼が創造した運命役であろう。その独創性が評価され2006年に文化庁芸術祭舞踊部門大賞を受賞した。敵同士の二人が瞬時に落ち、幸福の絶頂から急転直下悲惨な結末を迎える物語の背後には、確かに人知を超えた運命的なものを感じる。その象徴である「運命」を、佐々木大が具現化した。常に冷徹で、時には威圧的に時には無気味に人々をコントロールする大役。佐々木は際立った存在感で異彩を放ち、要所要所に登場して舞台に緊張感とインパクトを与えた。

 

篠原・下村のコンビは恐らく既に次回に向かって歩み始めているだろう。次はどんな作品で観客を魅了してくれるか期待したい。 

 

*なお「ロミオとジュリエット」2006年の再演にて文化庁芸術祭大賞受賞作品を受賞。

ダンスがみたい!19 白鳥の湖
2017年7月18日(火)~30日(日) 
d-倉庫

文: 竹重伸一

 このダンスフェスティバルでは一昨年から特定の音楽を指定して振付作品を委嘱するという試みを続けているが今年のお題はチャイコフスキーの「白鳥の湖」であった。私が観たのは全10作品の内6作品に限られたが、意外にもこの古典バレエの名作中の名作がコンテンポラリーダンスの振付家に大きな刺激を与えたようでここ3年で最も充実した内容のフェスティバルだった。そして世代もスタイルも多様な作品群の中からコンテンポラリーダンスがどこに向かっているのかも透けて見えてきたように思う。

 6作品はポストモダンダンスをダンスの到達点として考えているか否かで2つのグループに分けられる。前者は『名称未設定』の白井愛咲と『inspiration/delusion of SWAN LAKE』のC/Ompanyである。この2組はそれでも「ダンス」への愛着がそこかしこに垣間見える白井と言語が上演の中心的な位置を占めているC/Ompanyという明らかな違いはありながらも、特権的なダンス技術を否定した日常的な身体とコンセプチュアルな内容で共通している。しかし私はポストモダンダンスをダンスの到達点だとは思わない。日常的な身体の肯定は近代の自己同一性、主体性への安住に過ぎないからだ。C/Ompanyのダンサー児玉北斗は上演中にテキストではそれへの批判に触れていたが、彼の身体は上演中終始自己同一的なままだった。例えば室伏鴻は彼のダンスにおいて、そうした自己同一性への批判を言葉を使わずに身体だけで行ってみせたことを考えてみるべきだろう。

 一方他の4組はそれぞれのスタイルで日常的な身体への揺さぶりを試みていた。上杉満代『白鳥湖~私の遠景~』は、音楽家の多田正美が蛇腹状に繋がった竹筒を身に纏って暴れる中で上杉と寧呂が正座の状態で痙攣から飛翔に移ったラストシーンがそこまでの生真面目過ぎるダンスを一挙に引っ繰り返すナンセンスさがあって痛快だった。『みづうみ』の三東瑠璃は川端康成の小説『みづうみ』をモチーフにして身体のオブジェ化断片化を精緻な振付によって探求した。特に女性の背中から臀部の面と脚に対するフェティシズムが際立っていた。しかしフォルムとしては見事でも身体がトランスフォームしていないので、ダンサーそれぞれの身体から発散される皮膚的なエロティシズムという点ではまだ物足りなさを感じた。川村美紀子のソロにおいてはダンスはもはやパフォーマンスの一部でしかなくその点に不満がないわけではないが、男性中心主義的な視線と欲望に貫かれた「白鳥の湖」の保守的なジェンダー観に対する暴力的なまでのフェミニズム批評は見事であった。川村の女性の欲望によってラストシーンでマネキン人形の王子様は性器にまで還元されてしまうのである。バレエダンサーの篠原くららとのデュオとなった笠井叡は自らを悪魔ならぬ狂言回しにして、観客の視線が間近にある小劇場で篠原に古典バレエの振付を踊らせることによりバレエを「スペクタクル」から「ダンス」に変容させた。笠井自身のイメージを否定したオートマティックな即興ダンスは時に退屈な反復に陥った時間もあったが、様式性の中に自己を埋没させた篠原の身体とのコントラストが次第に想像的空間の外にある身体の物質的な表層性=皮膚を浮かび上がらせたのである

撮影:YASKEI(上2点とも)

首藤康之×丸山和彰(CAVA)
『Leningrad Hotel』(レニングラードホテル)

2017年7月7日(金)~9日(日)

スパイラルホール 

文:新倉真由美

 観劇はチケットを予約した時から始まり、数か月先の舞台に思いを馳せる。観客は舞台の構成要素の重要な要素の一つであり、当日は慎重に服装を選んで会場に足を運ぶ。

 「Leningrad Hotel」は一言で言えばスタイリッシュな作品だった。ダンサーの首藤康之とパントマイムをベースに活動し「創る、楽しむ、繋がる」をモットーとするCAVAとが織りなすパフォーマンス。

 会場は青山のスパイラルホール、支配人からのサンクスカードに見立てたプログラム、舞台は客席との段差がなくフラットで、中央にレセプションデスクが置かれている。舞台空間を挟んで上手と下手にしつらえられた席に座っている観客は、ホテルのロビーにいる宿泊客のようにも見える。

 ドラマは首藤康之演じる支配人セルゲイを中心に展開する。首藤のエキゾチックで凛としたたずまいは、この役にうってつけである。アル中で退役軍人のドアマン、新人をいびる事だけが生き甲斐のポーター、戦争未亡人のメイド…共に働く個性的なスタッフがホテルの日常を構成している。そして一人の紳士の登場により、物語は異色の彩を加えミステリアスに展開していく。観客は役者の表情や動作から会話を想像し、ストーリーを追っていく。

 余計なものをそぎ落とした都会的でしゃれた作品で、鑑賞後には凍てつくレニングラードの光景を想像しながらワイングラスを片手に余韻に酔いしれたくなった。

(7月9日所見)

作・演出:首藤康之×丸山和彰(CAVA)

プロデューサー:中澤恭子SAYATEI

出演:黒田高秋・藤代博之・細身慎太郎・田中優希子・金田一央紀・澤村亮・丸山和彰

​竹田真理 Mari Takeda

ダンス批評家。関西を拠点にコンテンポラリーダンスの公演評、テキスト、インタビュー記事等をダンス専門誌、一般紙、ウェブ媒体等に寄稿。

​印象派NEO Vol.3
夏木マリ『不思議の国の白雪姫』
2017年4月2日(日)ロームシアター京都 サウスホール

文:竹田真理

夏木マリが自ら演出を手掛ける舞台シリーズ「印象派」。1993年から続く本シリーズはダンスを前面に出しているのが最大の特徴だ。日本にヨーロッパのコンテンポラリーダンス、特にヌーベルダンスと呼ばれた最新のダンスが続々と来日していた90年代のある時期、先鋭な身体技法を使ったベルギー出身のカンパニーの来日公演の会場で夏木マリ氏を見かけたことがある。ショー・ビジネスと最先端の舞台芸術との交流は当時も稀なことだったから、おや、と思い、印象に残った。ちょうど「印象派」初期のソロ・シリーズを展開中の頃だったのだろう。ピナ・バウシュやメレディス・モンクが好きだと言う夏木マリは、シリーズのタイトルからも分かるように、単なるエンターテイメントではなくアーティスティックで先端的、かつ深い思想を湛えた大人の鑑賞に堪える舞台を志向したのだろう。

 

今作は誰もが知っている童話をもとに、あらたにカンパニーを主宰して作る「印象派 NEO」シリーズの3作目にあたる。「不思議の国のアリス」と「白雪姫」の二つの物語に今の社会のトピックも盛り込んだ現代の童話だ。舞台はダンス、音楽、映像、美術、衣装を総合的に構成したもの。開始前の舞台に天井から白い羽を幾重にも重ねたオブジェが吊り下がり、背後の壁に何重にもシルエットが揺れていて、期待が膨らむ。

 

不思議の国を旅するのはマメ山田と野澤健。物語は二人の見た夢という設定だが、白いネグリジェ姿の二人は一羽の生きたウサギを連れている。アリスもその後を追ったウサギは迷宮への暗示だ。最初に出会うのは部族風の衣装のダンサーたち。パーカションのリズムで儀式のような身振りを踊り、謎かけをするようにリンゴを差し出して二人をワンダーランドの奥深くに引き込んでいく。

 

 

爆音のようなロック・ミュージックとともに展開するのは高密度の現代都市。高速で行き交う情報、消費社会の果て亡き欲望、爆発し炎上する高層ビル群。情報資本主義と新たな形の戦争がCGのめくるめく映像で描き出される。タブレット端末を手に踊るのはスーツ姿のビジネスマン&ビジネスウーマン。シャープな踊りは冷酷な競争社会を表しており、一人の女性が無惨にスーツを引きはがされる。ブラック企業と過労自殺を思わせる光景だ。女性が沈んでいる涙の池(CGが美しい)に鍵が池に落とされる。現代社会の風景の中に「不思議の国・・・」のさまざまなモチーフが現れ、舞台は暗示を含みながらスリリングに展開する。

 

白雪姫から採られたモチーフはリンゴだ。毒リンゴの赤は悪徳を、羽のオブジェの白は善と美(=白雪姫)を象徴している。真っ赤なスーツに赤い覆面をして登場するのが夏木マリ。卑猥なセリフにちょっとエロティックなポーズも交えながら高らかに笑い声を立て、存在感は強烈だ。毒を含んだ悪女は大人の女性の魅力でもあり、支配欲をもった現代の女性像でもある。だがビジネス社会では軋轢をおこし、結末はショッキングだ。

 

被り物の動物たちのシーンや、体より大きな服を着たシーンなどファンタジー色に富んだ場面が次々と現れる。場面ごとに創意を凝らした衣装も楽しい。白い大小の直方体は都市に見立てているようだが、実は箱型の打楽器、カホンだ。ダンサーたちが素手でたたくとトライヴ感満載のリズムのアンサンブルが生まれた。謎はますます謎を呼びつつ、その奥に真実の存在を仄めかすラストが胸にぐっと来る。

 

ダンサー・チーム「テロワール」はさまざまな語彙による振付に対応し、群舞も、ソロやデュオもしっかりとした踊りを見せている。振付には若手から中堅の活躍目覚ましい4人がフィーチャーされているが、どの場面のダンスをどの振付家が担当しているのか、不覚にも全てを見分けることができなかった。私の見る眼の未熟さではあるが、個性派ぞろいの独自のテイストが十分にアピールしてこなかった面もある。一作に多様な個性を一度に投入するのも一つの選択だが、一人の振付家とじっくり作り込み、そのアーティストのダンス観と夏木マリの世界観とのせめぎ合う様子はきっとスリリングだろう。表現者どうし、一対一の対峙から緊張感ある舞台が生まれる可能性もありそうだ。

 

また、各シーンは鮮烈なイメージを放っているが、シーンとシーンの繋ぎなど全体の演出にはまだ煮詰める余地が感じられた。演出に演劇の専門家を起用したり、また物語のより深い読み込みにドラマトゥルクを招いたりと、第三者の眼を取り入れることも、シリーズの発展に有効かもしれない。専門家による分業と共同/協働(コラボレーション)は今日の舞台芸術の新しい潮流だ。そうした成果を参照しつつ、「印象派」シリーズには是非とも、エンターテイメントと最先端のパフォーミングアーツの架け橋になって欲しいし、そうなってくれるものと期待している。

 

演出:夏木マリ
振付:井手茂太(イデビアン・クルー)/小㞍健太/長谷川達也(DAZZLE)/

   牧宗孝(東京ゲゲゲイ)
出演:Mari Natsuki Terroir
  (川本裕子/山﨑麻衣子/ノリエ・ハマナカ/小島功義/城俊彦/鈴木竜/小関美央/

   長屋耕太/牟田のどか)
   マメ山田/野澤健/夏木マリ

東京公演:2017年3月9日(木)~12日(日)世田谷パブリックシアター 

パリ公演:2017年4月25日(火)ルーヴル美術館オーディトリアム

​     http://www.impressionniste-neovol3.com

阿波根恒介


DJ/サウンドプロデューサー/音楽評論家
AWANE名義でSEEDS AND GROUNDより12inchアナログ「ATOM/SOLARIS」をリリース。フランスを代表するDJ、Laurent Garnierなど数々のトップDJにプレイされる。DJとして都内を中心に活躍するほか、ジャズ、ソウルなどブラックミュージックから最先端のクラブミュージックまでCDのライナーノーツの執筆や翻訳などライターとしても活動している。

世田谷美術館パフォーマンスシリーズ トランス/エントランスvol.15
鈴木ユキオ 『イン・ビジブル in・vísible』

2017年 3月 9日(木)~10日(金)

世田谷美術館 エントランス・ホール 

 

文:阿波根恒介

 

世田谷美術館が2005年にスタートさせた「トランス/エントランス」はエントランスホールで行う実験的なパフォーマンスの企画である。15回目を数える今回は、2008年に「トヨタコレオグラフィーアワード」で「次代を担う振付家賞(グランプリ)」を受賞した鈴木ユキオによる「イン・ビジブル in・vísible」。10段に満たない階段と踊り場、そして二階に続く階段を背にした舞台は普通の劇場の装置から比べるととてもこぢんまりしているが、観客との距離がとても近いため非常にパーソナルな空間になっている。ダンサーの息遣いが聞こえるほどの距離での彼のダンスは、インビジブル=見えないどころか一般の公演に比べてむしろ見えすぎるくらいであった。しかしながらバックの壁に映し出される映像と環境音楽からエレクトロニカまでを奏でる音楽とともに立ち上がる空間は、ダンサーの身体を含めてそれぞれが重なり合うことで現実感を喪失させる装置として機能し、目の前で繰り広げられていることがまるでスクリーンを通しているかのような錯覚を観客にもたらすようであった。映像や音、そしてそこかしこに散らばるオブジェの隙間を縫うように体を動かし続けていると、ビジブルであるはずの身体はどんどん抽象化されていき空間と一体化してどんどん見えなくなっていくような感覚に捕らわれ、映像を映し出すプロジェクターが同時に映し出す彼の影と、彼の身体との関係、そして影として登場するもう一人のダンサー、赤木はるかとの絡みを経てヒプノティックなグルーヴは頂点を迎える。しかし先に行われたインタビューで「見せたいものをただやる、というのとは違って、見せたいものの周りをいろんな角度で彫り続けると、いつのまにか腕が、脚が見えてきた、というような。あぶり出しとして、ダンスがあります」と語っているように、空間が抽象性で満たされれば満たされるほど、しかしながらダンスする肉体はより具体的な身体として同時にこちら側に訴えてくるのがまさにこの作品のテーマなのである。この変則的で親密な空間だからこそ成り立つようなこのパフォーマンスはその名の通り見えるものと見えないもの、現実と夢、具象と抽象を行き来する幽玄なものであった。まさに抽象的な空間から身体そのものを取り出し具象化させていく見事な作品と言えるだろう。

演出・出演:鈴木ユキオ

出演:赤木はるか

美術:いしわためぐみ     映像:みかなぎともこ  作曲:小野寺 唯

サウンドデザイン:斎藤梅生  照明:加藤 泉

宣伝美術:細川浩伸      記録写真:堀 哲平    記録映像:イリベシン

芳賀直子 Naoko Haga

​舞踊研究家。東京生まれ、ベルギー、鎌倉育ち。舞踊、中でもバレエ史を中心に研究を行っている。専門はバレエ・リュス、バレエ・スエドワ。明治大学大学院文学部演劇学専攻博士課程前期修了(文学博士取得)。1998年のセゾン美術館における『バレエ・リュス』展での仕事を皮切りに、舞踊研究家として執筆、講演、展覧会監修等を行うようになる。2005年~2014年まで、薄井憲二バレエ・コレクションキュレーターを務め、年間2回の企画展及び6回の常設展すべてを手掛けた。

アーキタンツによるダンス・シリーズ
ARCHITANZ 2016ダブルビル

 

2016年11月1日(火)~11月2日(水)
新国立劇場 小劇場[THE PIT]

文:芳賀直子

今回のダブルビルの隠れテーマは「声」そして「故郷」かもしれません。『REEN』は「故郷」「我が家に帰る」をテーマとして振付けられた作品でしたし、『Voice mail』は直訳しれば「留守番電話」、まさに「声」のメッセージです。また、振付家の「故郷」の一つ香港、ダンサーの「故郷」である日本がしばしば登場していました。

アーキタンツのこのシリーズは欧州と香港の最新作品を見せてくれたと言えるのではないでしょうか。

 

『REEN』

日本のコンテンポラリーダンスシーンに重要な踊り手が集った作品と一つだったと言えるでしょう。彼らの身体能力が実現した、ヴァスラフ・クネシュの振付も魅力的な作品でした。クネシュによる振付は声、音楽、動きと様々な要素が絡み合ったものでテクノロジーが作品を豊かにしている姿を見る事ができました。

舞台に張られたロープ、照明も効果的で美しく、新しい作品ならではの見た目と哀愁を感じさせるアモス・ベンタールによるギターとの組み合わせも大変印象に残りました。

ちなみに上演した「Opto」とはネザーランド・ダンスシアター所属の渡辺レイ、小㞍健太、湯浅永麻を中心としたプロジェクトカンパニー。柳本雅寛、首藤泉のダンサー5人とアモス・ベンタールによる作品で、今回が東京初演(2015年群馬初演)ですが、大きな足跡を残したと言えるのではないでしょうか。

「故郷」とは何なのか、「我が家に帰る」とは…世界情勢が混沌を極める中色々考えさせられる作品でもありました。

 

『Voice mail』

ユーリ・ン振付、ウン・チャク・イン音楽、ヤッポ・シンガーズとオーディションで選ばれたダンサーとシンガー。ユーリからヤッポ・シンガーズの話を聞いたのは数年前の事、丁度香港藝術祭に行っていたので、レッスンを見にスタジオにも立ち寄り、是非作品として見たいと思っていました。2015年に続いての来日です。

声を主体としたシンガーに身体を用いて踊らせる、そしてシンガーに踊らせるという(全部ではありませんが)試みは気持ちよく成功しているように感じました。

長く香港バレエ団でプリンシパルとして活躍した高比良洋のきれと味わいのある身体もよく調和した作品になっていました。

「留守番電話」(Voice mail)をテーマとし、香港返還の際に『Boy story』で を授賞したユーリ・ンらしい、現在の香港、日本に触れた部分からもイメージが広がる作品でした。再演によって更にブラッシュアップされた姿も見たいと感じました。

​撮影:YASKEI

​撮影:Yuriko Takagi (舞台4点とも)

志賀信夫

1955年生まれ。批評家。舞踊学会、舞踊批評家協会所属。テルプシコール「舞踏新人シリーズ」講評者。批評誌「Corpus」編集代表。著書『舞踏家は語る--身体表現のエッジ』(青弓社)、編著『凛として、花として』(アトリエサード)、共著『踊るひとに聞く』『吉本隆明論集』『Free Music 1960~80』。雑誌『トーキングヘッズ叢書』『表現者』『ダンスワーク』『ダンサート』『Bacchus』『図書新聞』などに執筆している。

「sutra(スートラ)」 本邦初来日公演
  Sidi Larbi Cherkaoui's "sutra"

 

2016年10月1日 (土)~2日 (日) Bunkamura オーチャードホール

出演・振付・演出:シディ・ラルビ・シェルカウイ

ダンス&現代アート界と結集して魅せる 本場少林寺の僧侶19名

「少林拳とダンスのありえない世界」

文:志賀信夫

 シディ・ラルビ・シェルカウイの作品を最初に見たのは、2006年のサシャ・ヴァルツ&ゲスツ『ダヴァン』である。サシャの作品として上演されたが、振付・演出はシェルカウイとダミアン・ジャレで、前衛的かつすごく魅力的な作品だった。以降もアクラム・カーンとの『ゼロ度』(2007年)、森山未来との『テヅカ』(2012年)『プルートゥ』(2015年)、そして2014年の『バベル』など、常に多様で刺激的な作品を次々と生み出している。

 なかでも『バベル』は、モロッコとフランスという背景を持ち、ベルギーで育ったシェルカウイの多言語・多文化感覚で美しく完成された作品、ダンスの枠を超えた新たな総合舞台ともいえるものだった。

 今回の『sutra』は、シェルカウイが中国河南省の嵩山少林寺に2カ月滞在し、僧侶たちと対話してつくった2008年の作品。通常はアリ・タベが出演するが、来日公演はシェルカウイ自身が出演した。ただ東京公演でシェルカウイは負傷し、愛知、福岡公演はアリ・タベが演じた。

 

・人間と棺

 ダンスには空手、太極拳などから入る人もいる。多くは男性で日本ではストリートダンスをする人が多いが、外国ではバレエを経て武道を経験する人もいて、フィンランドの振付家テロ・サーリネンは舞踏と武道を学んでいる。日本と海外では武道のとらえ方がだいぶ異なり、海外ではしばしば東洋思想と結びつけられる。コンタクトインプロを生んだスティーヴ・パクストンが合気道を学んだのは、師ジョン・ケージの鈴木大拙などへの関心の影響だろう。

 その意味でこの作品には、ケージの流れによるポストモダンダンスの「指示による行為」というモードも見いだせる。舞台下手手前でシェルカウイと少年僧が、指揮者のように小さな箱の模型を動かして、それに合わせて舞台が次々と展開するのだ。

 棺にも思える横60センチ、縦180センチほどの木の箱が舞台装置である。担当した美術家アントニー・ゴームリーは、オペラシティや国立近代美術館にあるように身体の立体作品で有名だが、『バベル』で巨大な枠を動かしたのと同様に、幾何学的な木箱を使い、それが演者たちの身体の柔らかさを浮き上がらせる。

 舞台展開で変わる10~19個の蓋のない木箱は、下を向けて並べれば小舞台になり、入口を観客側に向け重ねれば人が入る棚になり、立てると林立したロッカーに見える。この箱は個人の空間でもあり、小さな国とも世界ともいえ、人間が最後にたどり着く棺でもあるのだろう。

 

・少林拳とエンターテイメント

 冒頭では、木箱を入口を上に向け並べた中から手や演者が飛び出て、神出鬼没で目が離せない。そして僧侶のスキルとテクニックに驚く。縦に並んで同じ技を次々繰り広げると微速度撮影、マイブリッジの分解写真のようにも見える。ただ構成的、美的なものだけでなく、箱ごとドミノ倒しになる場面も含めて、素早い展開とともに、身体のエネルギーが舞台から迫る。

 登場する僧侶たちは少林拳の動きを演じ、構成・演出でそれをダンスに見せる。特に、シェルカウイ自身がそこにはまり踊ることで、ダンス作品としての強い磁場を生み出している。ちなみに中国では少林拳といい、それが日本に入り少林寺拳法ができたので、少林拳と少林寺拳法は区別される。

 何よりこの作品の魅力は、エンターテイメントとして一級であることだ。コンテンポラリーダンスでありながら、物語性を付与せず体の動きと展開の速さ、音楽で見せる。弦とピアノとパーカッションによるシンプルな音楽も、生とは思えない完成度の高さで、演者との生の関係が躍動感を生む。

 そして改めてシェルカウイのダンサーとしてのすごさがよくわかる。体の柔らかさや、木箱の中の動きのバリエーション、僧侶と競うように演じる場面いずれも身体表現として見応えがある。徹底的に構成・振付・演出しながらも、自ら身を投じる意識があるからこそ、少林拳の僧侶のエネルギーを作品にでき、この「見たことのない、ありえない世界」を生み出しているのだ。

舞台美術:アントニー・ゴームリー(英ターナー賞(94)、大英帝国勲章(97)

音楽:サイモン・ブルゾスカ

企画・招聘:株式会社パルコ

シーズン全バレエ&ダンス公演2016ー2017の作品解説や当バレエ団のダンサーをまとめた最新の情報。

1500円(税込)-劇場にて発売中。

新倉真由美

 

学習院大学仏文科卒。執行バレエスクール所属。日本ペンクラブ会員。文化庁・NBA・舞踊作家協会・杉並洋舞連盟・センドーオペラ等の公演、上海万博、映画「シロナガスクジラに捧げるバレエ」等に出演。

各地でサロンコンサート開催。著書に「ミセスバレリーナ 幸せ色のあした」、「同 夢果てしなく」(新風舎刊)、訳書にR.プティ著「ヌレエフとの密なる時」(新風舎刊)、B.M.スタブレ著「ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影」(文園社刊)

新国立劇場「ロメオとジュリエット」
New National Theatre "Kenneth MacMillan's Romeo and Juliet"

1965年に英国ロイヤル・バレエで初演された英国が生んだ20世紀の最も重要で革新的な振付家

ケネス・マクミランの最高傑作

2016年10月29日新国立劇場

芸術監督:大原永子     キャスト:小野絢子(ジュリエット)、福岡雄大(ロメオ)

文:新倉真由美

 舞台芸術の醍醐味は舞台上のみにて息づく、その儚さにある。運命的な出会いから非業の死へと一気に突き進む僅か数日の物語は、演劇には無論のこと、バレエにも格好の作品と言えよう。事実ケネス・マクミランの他ジョン・ノイマイヤー、ジョン・クランコ、ルドルフ・ヌレエフ等様々なバージョンがある。ダンサーとして活躍していた頃からマイムも評価されていたマクミランは、従来のバレエの規範にとらわれず、演劇性を重視し柔軟な表現手法を用いて革新的な振付を行った。「ロメオとジュリエット」ではバレエの要素としては稀有な憎しみ、嫌悪、懊悩、悲嘆など人間のネガティブな感情がストレートに表現される。クライマックスにロメオの死を知ったジュリエットが口を大きく開けて号泣するシーンが象徴的である。二人の死により反目しあっていた両家が和解するハッピーエンドの演出もあるが、マクミラン版はジュリエットの死という悲劇の極みで幕が下り、観客に大きなインパクトを残す。登場人物は非常に人間的に描かれ、歩く、走る、などの基本的な所作も、時にバレエ的と言うより寧ろ日常的あるいは演劇的に行われる。それらの試みが作品に斬新なリアリティを与え、初演時にはセンセーションを巻き起こした。

 成功のカギを握るのはタイトルロールの二人だが、小野絢子・福岡雄大それぞれに刻々と変化する感情を実に雄弁かつ繊細に語っていた。ジュリエットは無邪気な少女から恋する女性へと変わり、更に恋人の窮地に直面するや意志の強さや勇気が加わっていく。小野演ずるジュリエットは登場から瑞々しい可憐さが際立ち、徐々に変化を見せつつも最後まで褪せることなく、それが悲しみを一層色濃くした。一方福岡のロメオは演技力もさることながら、踊るパートの多さにも拘わらず一瞬たりとも気を抜かない正確なポジショニングや神経の行き届いたポワントワークが目を引いた。

共に大役に真摯に挑んだ姿勢が随所に窺え、心に響く見事な舞台だった。

阿波根恒介


DJ/サウンドプロデューサー/音楽評論家
AWANE名義でSEEDS AND GROUNDより12inchアナログ「ATOM/SOLARIS」をリリース。フランスを代表するDJ、Laurent Garnierなど数々のトップDJにプレイされる。DJとして都内を中心に活躍するほか、ジャズ、ソウルなどブラックミュージックから最先端のクラブミュージックまでCDのライナーノーツの執筆や翻訳などライターとしても活動している。

勅使川原三郎×山下洋輔「UP」
Saburo Teshigawara×Yosuke Yamashita  ”UP”

文:阿波根恒介

 

2016年10月7日~9日 東京芸術劇場プレイハウス

出演:勅使川原三郎、佐東利穂子、山下洋輔

 

長らくジャズ界を牽引してきたピアニスト山下洋輔と、ダンスカンパニーKARASを主宰し独自のダンス表現を追求する勅使川原三郎がコラボした異色の公演「UP」が2016年10月7日池袋の東京芸術劇場プレイハウスで初日を迎えた。この共演は2度目だそうで、きっかけは生活向上委員会で知られるサックス奏者の梅津和時が新宿ピットインで二人を引き合わせたことらしく、その時はジャズフィールドでのコラボレーションであった。場所を東京芸術劇場に移しさらに規模を大きくした今回は勅使川原三郎が構成、振り付け、美術、照明を全て手がけるダンスの場でのセッションとなった。そこにKARASの主要メンバーであり近年国際的にも高い評価を受ける佐東利穂子が加わった三つ巴の異種格闘技戦となった本公演は、暗闇の中から一筋の光が差し込む山下洋輔のピアノで幕を開けた。山下洋輔といえばピアノ炎上だったり肘で鍵盤を鳴らすなど時に過激にフリーな印象があるが、近年は協奏曲を書いたりオーケストラとの共演も多くダンサーとのコラボレーションである今回は過激度は控えめに美しい旋律ではじまる静かな立ち上がりであった。スッと舞台奥から現れピアノに呼応しながらしなやかに体を動かしていく勅使川原三郎のダンスはギリギリの緊迫感を保ちつつ山下のピアノと絶妙な距離感をもったスリリングなもので、お互いの表現のボキャブラリーの多さに早くも魅了された。そして特筆すべきは照明で、グランドピアノが中央に位置するのみでその他の装飾を一切排した広い舞台の横幅、奥行きを存分に活かし、勅使川原、佐東それぞれの踊る領域を照らしだし演奏とダンスをより有機的に結びつける重要な役割を担っていた。そしてなんといってもハイライトは本当の馬がステージに登場したことだろう。その存在感は圧倒的で悠然と舞台を闊歩する姿それだけでステージを支配していたが、馬の歩調に合わせて即興を繰り出す山下洋輔も負けてはいなく、途中バックライトでグランドピアノと馬が浮かび上がる様はまさに息をのむほどの美しさであった。より旋律を重視した山下のプレイはその後要所要所で肘打ちを繰り出しつつテンションを高め、勅使川原、佐東のダンスと濃密な対話を深めていく。それぞれ表現の領域は違うもののお互いのパフォーマンスに触発されて理解が深まっていく様が観客にも見て取れる素晴らしいコラボレーション作品だった。

三森八重子

文部科学省科学技術政策研究所国際研究協力官、独立行政法人理化学研究所連携子ウーディネ―ター、国立大学法人東京工業大学産学連携コーディネーター、国立大学法人筑波大学国際経営プロフェッショナル専攻(MBA-IB)准教授を経て、2015年より国立大学法人大阪大学高等教育入試研究開発センター兼インターナショナルカレッジ教授、 現在に至る。東京外国語大学非常勤講師、筑波大学医学系非常勤講師。

米ハーバード大学ケネディスクールよりMPA取得。東北大学大学院工学研究科技術社会システム専攻、博士(工学)取得。日本生産管理学会、研究イノベーション学会、日本MOT学会、 PICMET、 米国科学振興協会(AAAS)、日米研究インスティチュート(USJI)会員。

「愛と精霊の家」

 

​文:三森八重子

2016年10月7日

りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館

演出振付:金森穣

出演者:井関佐和子、山田勇気、小㞍健太、奥野晃士、金森穣

 

2015年の「水と土の芸術祭2015」で一夜限りの舞台として作られた「愛と精霊の家」の再演が、Noismのホームグラウンドであるりゅーとぴあで行われた。物語には、一人の女(井関佐和子)と、4人の男(金森壌、山田勇気、小㞍健太=ダンサーと奥野晃士=俳優)が登場し、4組4様の男女関係が展開する。舞台はいたってシンプルで、床に敷かれた赤い絨毯の上に、女性の服を着せられたトルソーと、椅子。それらをシーンによって上下する金色(きんしょく)のシャンデリアが彩る。

冒頭のシーンで、金森壌の研ぎ澄まされたソロが光る。俳優の奥野晃士が不条理劇の巨匠イオネスコの『椅子』の詩を朗々と語り、肌色の総タイツに身を包んだ井関が、圧倒的な表現力で詩をダンスに置き換える。Noism2の監督である山田勇気と井関との絡みでは、ハーフミラーが舞台上に置かれ、ミラーに映し出された井関と、山田がシンクロのダンスを踊る。ネザーランド・ダンス・シアター(NDT1)で活躍し現在はフリーランスの小㞍健太と井関との絡みでは、男女の愛情豊かな濃厚なダンスが繰り広げられる。また、懐妊の喜びや、流産の悲しみもおなかに仕込んだ風船などを使ってわかりやすく描かれている。

出演するダンサーや俳優の圧倒的な高いレベルのダンスや語りのレベルに加えて、ビデオや前述のハーフミラーなどのハイテクを利用した舞台づくりが光る。舞台上に吊られた白い幕に照らされた映像に、ダンサーが自由に入り込み、踊り、舞台に戻ってくる。

椅子と机が重要な役割を果たす。赤いソファーは、時には、俳優が寝転ぶベッドとなり、時にはアベックが語らうベンチとなる。最終のシーンでは、舞台上にテーブルと2脚の椅子だけが置かれており、女(井関)が、時には机の中に入り込み、時には椅子をあやつり、心の葛藤を表す。幕切れでは、井関がテーブルの上にカバーをふわっと被せ、銀色にきらめく粉が舞い散る。新たな挑戦、新たな展開を予測させる。

同作品は、金森と井関が創っているプライベートのユニットunit-Cyanが2012年に発表したシアンの家を基に創られた。Cyan版では、男女間の愛と死を描くプライベートな作品であったが、今回はパブリック向け作品として、男性ダンサーを追加しテーマに普遍性を持たせた。

また本作品は、金森が2015年に立ち上げたNoism0の最初の作品として発表された。Noism0は、ダンスに限らず、演劇や音楽、美術などの様々な分野で卓越した活動を展開しているアーチストを招聘し不定期に公演を行うプロジェクトで、Noism1および2の活動から生まれた金森穣の新たな挑戦である。(了)

マグナム・ファースト日本展2016    

MAGダンスコンサート(ダンス企画協力:ダンスカフェ 撮影:YASKEI)

@代官山ヒルサイドフォーラム

ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ワーナー・ビショフら伝説の写真家8人による83枚の写真作品。本展示会は海外でも「写真によるヒューマニズム」という写真集団「マグナム」の理想を明確に伝えていると言われている。この展示会のテーマ・作品に触発された現代舞踊家ら6名がダンス作品を創り上げ、写真に囲まれた広間で発表。経験豊かな振付家の個性が光る6作品。

●5月 7日(土)藤井香作品「平和な食卓から」

●5月13日(金)山名たみえ作品「INORI]

●5月14日(土)武元賀寿子作品「コトの始まりを始める」

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★5月10日(火)後藤かおり「音の記憶」

★5月12日(木)うえだななこ「0」

★5月14日(土)平松み紀「...with dance」

藤井香「平和な食卓から」

山名たみえ「INORI」

武元賀寿子「コトの始まりを始める」

後藤かおり「音の記憶」

平松み紀「...with dance」

うえだななこ「0」

佳手芙美 Cadet Fumi

パリ第8大学博士課程DEA修了。《ダンスの現場から》主宰。ピナ・バウシュ、ウイリアム・フォーサイス、マース・カニングハムから今gテンポラリーダンスの巨匠たちのアーティスト・トーク、ワークショップ、ビデオダンスを実施。

雑誌「danceart」、「10+1」「ユリイカ」「インタ―コミュニケーション」「シアター・アーツ」などにダンス評論を執筆。現代美術家・演出家ヤン・ファーブルのプロデュース。

アヴィ二ヨン・フェスティバル、モントリオール国際舞台芸術見本市(CINARS)等取材。

『紙ひこうき』改訂版

                       

文:佳手芙美

2016年7月26日

​あうるすぽっと

ファビアン・プリオヴィルの演出・振付作品『紙ひこうき』は、高崎の「NPO法人バレエ・ノア」のスタジオで学ぶ生徒たちとファビアン・プリオヴィルの共同制作により誕生し、大いに話題を呼んだ作品である。2008年8月のさいたま芸術劇場、世田谷パブリックシアター、さらには同年11月にNRW国際ダンスフェスティバルwithピナでも上演された。

今回の『紙ひこうき』改訂版は、あらたにオーディションで選出されたメンバーによる上演である。初演のバレエ教室の生徒たち、女子高校生とのワークショップで「学校生活の中に潜む“いじめ“」をファビアンは、彼女たちから引き出した。会話を重ねながら、ダンスを踊るためにやってきたのに、彼女たちは質問されたり、話し合うことに始めは、戸惑いを見せていたが、徐々に創作のペースは整っていった。ワークショップを重ねながら女子高生たちの内面に潜む叫びをファビアンは、ダンス作品『紙ひこうき』のメッセージへと仕上げていった。

 ファビアン・プリオヴィルは、元ピナ・バウシュブッパタール舞踊団で活躍。その後、独立して振付作品を発表している。タンツテアターの流れ、クルト・ヨースからピナ・バウシュへと受け継がれ、その遺伝子をファビアン・プリオヴィルは、継承していると感じられた。

 

『紙ひこうき』は、「学校なんか、大嫌い!」と女子高生の叫び声で幕を開けた。この作品を象徴する女子高生の声が反響してダンスシーンが始まった。舞台には黒いパーカーに包まれた身体。ジッパーに閉じ込めらた手足の動きは、コミカルだが、次第に閉塞感を漂わせるファビアンの振付けは、“踊る”という概念の広がりをみせる。パーカーのジッパーを開くとそこには、制服姿の女子高生が現れる。仮面をつけた彼女らが懸命に化粧をする。

 _装う。それは、まさしく、社会の中に埋もれている個人の素顔との葛藤でもある「装う自分」をまず化粧でその導入部が展開する

 女子高生のグループが、会話を交わしている。突然、時間が止まる。一人だけが凍結した時から放たれて、それぞれの少女たちに言葉のつぶてを投げる。「お前ゎぁ~キモイんだよ!」。周囲の沈黙のなかで、その叫び声は、ひとりの少女の奥深い「集団と個人の関係」を表していた。装うことで保たれている「集団と個人の関係」。時間の停止が、その関係性の虚実をあらわにする。凍結の時間が解かれて、日常の笑顔に戻る少女たち。

 鎖を手から離したいが…ほどけない。「誰か、助けて!」_そう叫び続けるが、誰もその鎖から彼女を解き放つ助けはない。自力で鎖を手からほどいた少女は、誰も彼女を救わ集団に加わり、群舞のなかに紛れていく。さらにダンスは、床を這うように腹這いの前進をする群舞が続く。敵前を前に塹壕へと進む兵士たちの「ほふく前進」のごとく進むその群舞は圧巻だった!「ダンスとは?」「踊るとは?」_そんな問いを軽々と越えてファビアン・プリオヴィルは、少女たちの叫びを『紙ひこうき』に傑出させた。

異文化のなかで創作活動をするファビアン。フランス人でありながら、ドイツのデュセツドルフに滞在し、日本の少女たちの声を作品化した。異文化へのまなざしは、現実を強烈にあぶりだす力をもっている。日本社会の個を埋没させ、集団への同化を受け入れよ!_とする暗黙のその抑圧を「少女たち」は、「学校なんか、大嫌い!」の叫びで主張した。

『紙ひこうき』のラストシーン_まるでバーのカウンターの椅子に腰かけるように、腰を少し浮かして片足をクロスして“頬づえをつくしぐさ”!_そこは、なにもない舞台空間だが、制服の少女のその大人びたしぐさが、突如として横倒しに倒れていく。次々に倒れる少女。しかし、また、立ち上がり、そのしぐさが繰り返される。そして暗転、作品の幕が下りた。群舞でありながら、個を主張する少女たちの佇まいが印象的であった。「いじめ」の集団での抑圧の構造をユーモラスに、また言葉の暴力でまくし立てるが、相手の耳に届かぬ時間の停止、ストップモーションのなかで、それは執拗に繰り返される。「踊ることから自由になる」_その表現のルーツをもう一度、たどることをファビアン・プリオヴィルの『紙ひこうき』は呈示している。作品のなかには、映像のシーンも織り込まれ、トイレのなかで仮面をかぶった女子高生が、相手を威嚇するように佇んでいた。叫び声、映像、語られる学校生活、そのすべてをファビアンは、「ダンス作品」に仕上げていった。少女が折る「紙ひこうき」は、自由への希求であろう。飛び出したい少女の存在が、集団に紛れていくシーンをさりげなく描く。「制服、少女、集団」_この特異性を十分に生かしながら社会と集団の普遍化された同一性への抑圧を表現した『紙ひこうき』は、秀逸な作品といえるだろう。

写真IRIS:©The Opera Holland Park Chorus in Iris at Opera Holland Park 2016. Photo Robert Workman

印南芙沙子

 

英国ダラム大学現代語学・文化学部、助教授。触れることや感覚・身体について、日本文学や舞台を含む文化表象を通して研究。学術論文以外の舞台批評は、Danceartほか、Bunkamuraウェブサイト、グラインドボーン・フェスティバル・オペラ(英国)などから委託を受け執筆。舞台を通した異文化間問題、コミュニティ・アートなどについても取材中 。

英国パフォーミング・アーツの現在形

文:印南芙沙子(英国在住)

危ぶまれていた英国のEU・ヨーロッパ連合離脱のニュースはまだ記憶に新しい。今年6月末の国民投票の結果、イギリスがEUを離脱することになった。とはいえ、若年層と老年層の年齢格差、ロンドンなどの都市と地方都市との地域や経済格差、そしてイギリスに根強く残る階級格差など、あらゆる格差への不満が反映される結果となった。僅差で敗れたが国民のほぼ半数は残留を望んでいた。今後どのような離脱交渉が進むかによって、英国北部に国境ができ国土が縮小することも起こり得る。そのような不安定な状況を踏まえ、今回は英国北部で上演された作品やイベントを中心に、ロンドンでの公演作品なども含めながら英国パフォーミング・アーツの状況の一端を見てみたい。

 

  • 男性バレエより新しい、スコットランド発『スワン・レイク』

    新版『白鳥の湖』といえば多くの人が1995年にロンドンのサドラーズ・ウェルズ劇場で初演された、マシュー・ボーンの男性ダンサーによるスワン・レイクを思い浮かべるだろう。同じく英国ベースで2000年に立ち上げられたBalletBoyzや日本の伝統芸能などを考えれば男性による男性カンパニーは特に珍しいものではなく、また、ローレンス・オリヴィエ賞やトニー賞など数々の賞を受賞し世界各地での公演が近年も続くボーンのスワンは、もはや新しい「古典」となりつつある。そんな中で、2016年4月にスコットランドのグラスゴーで初演され、6月までにアバディーン、インヴァネス、ニューカッスル、エディンバラ、リヴァプールとスコットランドとイングランド北部の都市で上演されたスコティッシュ・バレエの新作『スワン・レイク』は、振付、舞台セット、衣装などあらゆる面でスワンは古典だということを忘れさせてくれるような新しいスワンを観せてくれた。デヴィッド・ドーソンの振付によるダンサーの動きは全般的に抽象化され、現代バレエもしくはバレエを軸にしたコンテンポラリー・ダンスという風で、スワンを想起させる動きは控えめ。ジョン・オットーによる舞台セットもキリヤンやベジャールに近い中でも無機・抽象的な雰囲気で、色調も抑えられている。自身もダンサーとして活躍したユミコ・タケシマが担当した衣装は、ミニマルな装飾だが場面によってヴィヴィッドなピンクや紫で、ダンサーの動きの軌跡を振りと色で舞台上に刻む。

    あらゆる要素がミニマルに抑えられた中で、身体の動きと空間と色彩のマッチングが過不足なく美しい。そんな古典新作を観たのは久しぶりに感じた。

     

  • オペラ・ホーランド・パーク

    ロンドン西部のチェルシー地区にあるホーランド・パークで行われるオペラ・ホーランド・パークによる今シーズンのパフォーマンスはピエトロ・マスカーニによる所謂ジャポニズム・オペラ『イリス』、プッチーニの『ボヘメ』、他ロッシーニ、シュトラウス、チャイコフスキーの3作品を含む演目となっている。1898年にローマで初演された『イリス』はヨーロッパでもなかなか上演されない演目となっているが、今回は新しいプロダクション。盲目の父をもつ素直な若い娘イリスが騙されて遊郭に売られてしまい、追ってきた父親に罵られてショックのあまり自殺を図るという物語。全体の舞台構成や演出、スチュワート・ストラトフォード指揮によるパフォーマンスも然ることながら、何よりローヤル・オペラの若手振付家プログラムから初参加した、シャーロット・エドモンズの振付が素晴らしい。ナミコ・ガイエ–オガワがムーヴメント・ディレクター、エドモンズが振付を担当し、日本人から見ても違和感なくモダンに演出された今回の作品で、作中に登場する計男女3人の踊り子の振りと動きが、その一部だけ切り取ってダンス作品として観てみたいと思うほど際立っていた。オペラ・ホーランド・パークによる作品では、若手のオペラ歌手が参加する上演日も設けられており、カンパニーとしても学校でのワークショップや学習障害をもつ人々との創作ワークショップなど多彩な地域活動も行なっている。

     

    イギリスの芸術団体による創作を通した地域・社会貢献活動は芸術活動の層の厚さを感じさせると同時に、「アートは皆のもの」という意識を伝えており、そのような意識が日本にももっと根付いて欲しいと思う。

 

  • The Late Shows

    イングランド最北の都市で近年再開発が進むニューカッスルと隣接するゲイツヘッドでは、毎年5月に『レイト・ショー』という町をあげたオープン・スタジオ/ギャラリーが開催される。美術館やギャラリー、劇場や歴史的建造物でワークショップ、ツアー、パフォーマンスなどが夜遅くまで2日かけて行われる。前述の通り、人々が気軽にアートに触れられる機会となっており、町歩きにも楽しい。

     

    今後もこのような地域と教育、アートを結ぶイギリスでの芸術・文化活動に注目していきたい。

写真:記者会見6月3日 撮影:安田敬

阿波根恒介


DJ/サウンドプロデューサー/音楽評論家
AWANE名義でSEEDS AND GROUNDより12inchアナログ「ATOM/SOLARIS」をリリース。フランスを代表するDJ、Laurent Garnierなど数々のトップDJにプレイされる。DJとして都内を中心に活躍するほか、ジャズ、ソウルなどブラックミュージックから最先端のクラブミュージックまでCDのライナーノーツの執筆や翻訳などライターとしても活動している。

Philp Glass「The Complete Etude」

文:阿波根恒介

ミニマル音楽の大家、フィリップ・グラスが東京・錦糸町のすみだトリフォニーホールで2016年6月4日と5日の2日間に渡り11年ぶりの来日公演を行った。初日はパンクの女王パティ・スミスと共に生前親交の深かったビート詩人、アレン・ギンズバーグへのオマージュとしてグラスの代表曲にのせてパティ・スミスがギンズバーグの詩を朗読する作品「THE POET SPEAKS」を披露。そして2日目の「THE COMPLETE ETUDE」は、グラスが完成までに20年間を費やしたピアノエチュードを滑川真希、久石譲の2人のピアニストを交えて全曲演奏するというものだ。もともとグラスのピアノエチュードは、彼の代表作である「浜辺のアインシュタイン」で舞台監督を務めたアヒム・フライヤーの劇団のために書き下ろされた6曲のエチュードがそのはじまりで、ピアノを弾いたのは現在リンツ州立歌劇場の音楽監督を務めるピアニストであり、指揮者でもあるデニス・ラッセルであった。その劇団との企画は結局実現せず、あるピアノフェスティバルでデニスが演奏したのが初演となったようだが、これをきっかけにグラス自らが自身の作曲技法を試すために1番から10番を作曲した。そして残りの半分は、作曲当初よりグラス自身が演奏するのではなく他のピアニストが弾く事を念頭に置いたため、技術的な側面や構造などがより高度になっており、自らの作曲技法における音楽的挑戦がテーマになっているといえよう。そのため、実際の演奏会の際にはグラスの他に演奏会が行われる国の代表的なピアニストを起用して各楽曲が披露されるという形をとっている。滑川に関しては前述のデニスの妻ということもあり、もともとグラス作品に参加する機会も多く、エチュード全20曲の中には彼女の演奏をイメージしたものも含まれているそうだ。そのため今回の演奏は、彼女に加えて久石譲がゲストピアニストとして参加し総勢3名によるパフォーマンスになったわけだが、超絶技巧で演奏する滑川のプレイは水を得た魚のように会場を支配し、老練なグラスのプレイと好対照に響き渡りエチュードの1番から10番、そして後半の11番から20番までの楽曲の性格の対称性を際立たせていた。そこに、久石譲の演奏が絡むのだが、彼の楽曲に表れている叙情性が滲みでていて、ピアニスト然としている他2人の演奏とはまた違う個性が発揮されていてとても興味深かった。彼の作曲家としての側面がよりよく表れているといえるようなその演奏は、技巧的な側面が強調されがちなエチュードにおいて楽曲そのもののグルーヴを俯瞰したかのような感じで3者3様の解釈が堪能出来る全20曲となった。グラス自身も他のピアニストが演奏する際なにも注文をつけないそうで、彼自身自らの曲がどのように解釈されるのか楽しみにしてるそうだ。そのようないわば作曲の余白を如何に表現するかが今回の3人それぞれの演奏を方向付けていて、結果的に実に味わい深いパフォーマンスを引き出したのだといえるだろう。

阿波根恒介


DJ/サウンドプロデューサー/音楽評論家
AWANE名義でSEEDS AND GROUNDより12inchアナログ「ATOM/SOLARIS」をリリース。フランスを代表するDJ、Laurent Garnierなど数々のトップDJにプレイされる。DJとして都内を中心に活躍するほか、ジャズ、ソウルなどブラックミュージックから最先端のクラブミュージックまでCDのライナーノーツの執筆や翻訳などライターとしても活動している。

August 29, 2016

 

高谷史郎「CHROMA」


文:阿波根恒介


京都を拠点とするマルチメディアパフォーマンスコレクティブ、ダムタイプの創設メンバーであり、その後数々のインタレーションや舞台作品を発表してきた高谷史郎による2012年初演となった「CHROMA」が、4年経った2016年5月21日と22日の2日にわたり新国立劇場で上演された。「CHROMA」とはギリシャ語で色彩の意味であり、また94年にエイズが原因で亡くなった映画監督デレク・ジャーマンが生前最後に著した著作のタイトルでもある。音楽はデレク・ジャーマンの映画音楽も多数手がけているサイモン・フィッシャー・ターナーが手がけており、その編成をみるとデレク・ジャーマンの追悼作品のような趣が色濃く感じられるかもしれないがあくまでそれは作品の入り口に過ぎず、数々の色彩の実験がダンサーの身体、サウンド、映像を用いて、そして舞台そのものの可能性においても行われている。およそ10シーンにわたるシークゥエンスからなるこの作品は、前作「明るい部屋」が通常の劇場/舞台ではない場所で上演されることを念頭に製作されたのに比べて劇場というプロセニアムな装置の中でどのように見せることができるのかというのが一つのテーマになっている。つまり「明るい部屋」では、観客席から舞台へという固定された視点を取り払うことで観客と演者/舞台の固定された関係を解き放つことに主眼が置かれていたのに対し、本作では逆に観客と舞台との関係を固定することで見せる事ができるパフォーマンスに重きが置かれているのだ。しかしながらそれはいわゆる普通の舞台作品を指向しているというわけでは当然無い。今回の一つの特徴は限定された視覚に対してサウンドデザインの面でマルチな視点にチャレンジしている点だ。霧の彫刻家、中谷芙二子とのインスタレーション「CLOUD FOREST」で使われた超指向性スピーカーが使用されているのだが、本体が360度回転することで様々な方向に音の照射が可能となり、床にも振動スピーカーを設置して様々に反響する事でよりアブストラクトな音体験を可能にしている。そして映像的にも舞台の上から吊るされたスクリーン、床、そして舞台全面に張られた紗幕の3面に投影された映像が3Dのような効果をもたらして、観客の視点を一方向から解放していくような不思議な視覚体験を実現している。視点を一つに設定しているが故に音と映像と生身の身体に対する近くの変動の仕方がよりエフェクティブになっているといえよう。こういった試みは当然ダムタイプの頃から常に行われており、特に「メモランダム」との親和性を感じさせもするが、実際に見ている舞台が時に舞台上から俯瞰で見ているような錯覚に陥ったり、2Dな平面に見えたりと視覚/聴覚を幻惑されて映画をみたりするのとは全く違った体験をもたらすところが高谷史郎の真骨頂といえるだろう。それは数多くのインスタレーションを発表してきた経験と無関係ではない。デレク・ジャーマンの「CHROMA」というテーマを用意して、またアリストテレス、ヴィトゲンシュタイン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ゲーテなどの色彩論をサブテキストを引用しながらも、それらの引用の断片がリアルタイムで見ていてはなかなか咀嚼出来ないスピードで浮かんでは消えていくことで、パレットの色が混ざって何色だかわからなくなっていくように意味そのものが実体を無くして抽象化していく。これは情報をオーバーフロウさせることで観客に一種のバグを引き起こし意味性や解釈の余地をすべて奪ってしまうということで、観客と舞台上で起こっているパフォーマンスを、その間に成り立る解釈という幕を取払ってギリギリのラインで相対させることになる。ただそれはかつてのダムタイプの作品や池田亮司のそれほどのめくるめくようなスピード感や情報量ではなく、ぎりぎり咀嚼不可能な量やスピードというか、ほとんど静的な流れのなかでバグが生まれていくのがこの作品の一つの特色と言えるかもしれない。変化はまったくドラスティックでは無いものの気づくと変化の渦に巻き込まれている。それを一つの体験として享受出来るかどうかが本作への評価の大きな分岐点になるだろう。公演後のアフタートークで非常に印象的だったのだが、観客からの感想でそのほとんどの人が「意味がわからなかった」とか「どう見ていいのかわからなかった」という意見があったということで、つまりそれはいわゆる普通にリニアに語られる物語としての舞台ではない本作のような作品へのリテラシーの問題が大きいということだ。少なくとも高谷史郎の作品と知って決して安くはないチケット代を支払って見に来ている観客が、つまり例えばテレビでたまたま見たとかまったくそういったものに触れて来ていない人の意見ならまだしもそうでないであろう人たちの感想が、ただ「わからない」という事一点に収束してしまった事に少なからず衝撃を受けたのだが、つまりそういった現状が初演から4年もたってようやく上演されるという事態を端的に表しているということなのだろう。そこにこういった表現の試みの難しさが垣間見れたのだが、それはこの作品を語るのとは少し違うベクトルの話なのでこれ以上深入りはしないが、あらゆる知覚を奪って、もしくは過剰にインプットすることで意味性をはぎ取り、その後に立ち上がる体験そのものを表現していくというのはダムタイプもそうだし、池田亮司の音楽などに通底するが、今回のようなレイドバックしたグルーヴの作り方というか、ある意味でポエジーなステージはこれまでのインスタレーションの延長線上にあるテーマのようなものといえるだろう。その意味で色彩論を具体的に語っていくというよりも、強固なシステムであるプロセ二アムな舞台という装置を用いて具象を重ねていき、身体という生身な存在を色彩性という抽象に塗り替えていくという試みが行われるこの作品は、視点が固定され見る側と演じる側が厳密に区別されているが故に抽象性に至る過程が観客にとってよりはっきりした体験として感じられるに違いない。視覚とか聴覚とか様々な感覚が最終的にホワイトアウトしていくことで完結していくように、観客もその様を追体験していく。意味性を一つ一つ捨てていってまるで裸のまますべてが光の中に消失していく様は、便宜的にデレク・ジャーマンの一生を逆まわしに語っていき、死から始まり生へと帰っていくという説明がされているものの、すべてが観客、そして演者それぞれの個人的な体験とシンクロしてそれぞれの個の物語として収束していくのである。

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