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REVIEW

池上直子主宰ダンスマルシェ  vol.8 第1弾

「Destiny」

​2019年6月13日(木)-14日(金)

スクエア荏原 ひらつかホール(東京)

 

 

●第一部「ジョルジュ・サンドの手紙」

     出演:池上直子、イーガル(Piano) 

     音楽監督・作曲 :イーガル Dance Marche

●第二部「Carmen カルメン」

     カルメン:児玉アリス  ホセ:吉崎裕哉  運命・女達: 加藤美羽

     女達:有光藍、糸原聖美、新名かれん、前原星良、湯淺愛美

文:山家誠一 

 

池上直子の美意識 寸評

             

 ダンサーの池上直子の主宰するダンスマルシュの公演vol.8「Destiny」が2019年6月13-14日、東京・品川区のスクエア荏原ひらつかホールで行われた。池上自身の「ジョルジュサンドの手紙」と、彼女の「ダンサー育成プロジェクト」の成果「Carmen」が上演された。

 19世紀、若くして成功したフランスの個人主義者であり空想的社会主義者でもあった女性作家、ジョルジュサンド。パリ時代の恋人ショパンとの恋愛を描いた池上直子の「ジョルジュサンドの手紙」は、最初のシーンから魅力的だった。男装の麗人とも言われたらしいジョルジュサンドが、机に向かって書き物をしている。舞台下手では、ショパン役の作曲家でピアニストのイーガルが演奏をしている。池上は激しく動き出す。黒いスーツ姿は、宝塚歌劇団の男役を思い出すが、はるかに素晴らしい。

 池上の四肢の形や動きに曖昧さはない。イーガルのわざとらしい仕草は余計だが、ピアノの音は表情豊かだ。ピアノの音と交差しながらスピーディーに展開して行く池上は、ピアノの後ろを回りながら、イーガルの方に何度か近づいて行く。その事で、シーン~二人の関係を切り替えているようでもあるのだが、よく分からない。感情の動きや表出を、池上は体の動きで示しているのだが、感情の表現で言えば、ピアノの方が強かった気がする。

 ジョルジュサンドとショパンはパリを離れる。二人の生活。池上は黒いスーツから白いドレスへと衣装が変わる。その時面白いと思ったのは、スーツとドレスでは動きのバリエーションの幅が全然違ったことだ。黒いスーツは体にぴったりとしている分、動きは余計はっきりと見える。それに対し、ドレスのひだは形や動きを複雑にし、豊かさを作り出している。

 二人の生活の中に、“不幸”の手紙らしきものが届く。ジョルジュサンドは苛立ちを募らせて行く。だが、どんな手紙なのか。もちろん分からない。分からないが、何やら物語が展開しているように見えてくる。その物語性の発生は、観客にとってはマイナスであるような気がする。観客の中で、あの手紙は何だったのだろうかと言う引っ掛かりが出てきてしまうからだ。もちろん、ストーリーなり観念を、ダンスを使って伝えようとするものならば、それはそれで良いのだが。

 現代と言う時代に、ダンスと言う身体表現を見る観客にとっては、意味=物語性はあまり関係ないと思う。ポストモダン状況下では、意味そのものが集約点を失っているのだから。私たち観客は、身体が表出している感情の流れを感じたい。だからそこに於いては、ピアノと身体は互角に渡り合えるのだ。

 

 「Carmen」は、3ヵ月半の毎日のレッスンは無料、交通費支援と言う「ダンサー育成プロジェクト」の成果作品だ。オーディションによって選ばれた6名の育成メンバーと外からのゲスト参加によって、愛を生き抜いたカルメンを描いている。池上によって約70日間集中的に指導されたメンバーの動きは、池上同様キビキビとメリハリが利いて美しかった。そうした周りの明確さに対して、カルメン役の児玉アリスのバレエ的表現は対比的で良かったが、カルメンの内なる表情は弱かったと思う。それは繊細さの見せ方の問題だったのかも知れないし、また、我々の中にカルメンと言うと“濃厚”というイメージがあったからなのかも知れないが。

マニュエル・ルグリ「Moment」ピアノ:滝澤志野

三浦文彰(ヴァイオリン)、田村響(ピアノ)

オルガ・スミルノワ​「瀕死の白鳥」

三浦文彰(ヴァイオリン)、田村響(ピアノ)

マニュエル・ルグリ、オルガ・スミルノワ
「OCHIBA ~When leaves are falling~」

田村響(ピアノ)

Manuel Legris Stars in Blue Ballet & Music

マニュエル・ルグリ「スターズ・イン・ブルー」

バレエ&ミュージック

​2019年3月9日(土)東京芸術劇場 コンサートホール

文:新倉真由美    写真提供:愛知県芸術劇場    撮影:瀬戸秀美

 マニュエル・ルグリが3名のダンサーを率い、日本の音楽家2名と共演した「Stars in Blue」が東京を皮切りに大阪、宮崎、名古屋で行われた。

 最大の特徴は会場がコンサートホールであり、演奏をヴァイオリンとピアノのみで行うこと。緞帳もなく舞台上にピアノだけが置かれている。観客は約2000名、果たして最後列の観客まで魅了しえるか…それは幕開けの「ソナタ」が始まった途端、杞憂に過ぎなかったと悟った。

 ラフマニノフのチェロソナタにウヴェ・ショルツが振り付けた抒情的な作品を、ノイマイヤーのミューズ、シルヴィア・アッツオーニとボリショイバレエ団のプリンシパル、セミョーン・チュージンが見事に再現した。アッツオ-二は当初予定されていた木本全優のけがによる降板のため急遽招集され、チュージンとの共演も初めてだったが安定したコンビネーションを披露。チェロパートを演奏した三浦文彰のヴァイオリン、田村響のピアノのたおやかな音色と共にホールの隅々まで静謐な空気が満ちていった。 

 これを皮切りにボリショイの若きプリマ、オルガ・スミルノワの「瀕死の白鳥」などのソロ作品やデュエット作品、更にピアノ・ヴァイオリンそれぞれのソロ曲とアンサンブルがバランスよく構成されていた。中でもナタリア・ホレチナ振付の「Moment」はルグリが喜び、戸惑い、悲しみ、安らぎなどの様々な感情を豊かに表現し、等身大の彼が見え印象的だった。彼が深い信頼を寄せるウィーン国立バレエ団の滝澤志野が奏でるピアノが、全ての動きに優しく寄り添っていた

 最後を飾ったのはパトリック・バナが今回のために振り付け世界初演の「OCHIBA ~When leaves are falling~」。バナは蚕を求めて日本を訪れるフランス人男性と美しい日本女性とのプラトニックな恋を描いたアレッサンドロ・バリッコの「シルク」にインスパイアされ、ルグリの相手役としてスミルノワに白羽の矢を立てた。フィリップ・グラスの曲を演奏したのは田村響。二人は物理的また心理的な距離のままに、終盤に心を通い合わせるまでは上手下手両方に離れて踊っている。独特で繊細な腕の使い方などはバナの持つ日本的なイメージを投影したように感じた。二人の優れたダンサーが「沈黙の愛」を言葉以上に雄弁に表現し、神秘的で美しい作品だった。

 「Stars in Blue」はいみじくも上質な絹糸で丹念に織り上げられたシルクのように、シンプルで洗練された公演だった。ダンサーと音楽家、また出演者と観客との距離が近く濃密で一体感や緊張感が心地よい。またバレエファンには新進気鋭な音楽家たちを知り、ミュージシャンの愛好家には世界最高峰の踊りを目にするチャンスになり、双方の今後の観客動員にも貢献したと言えよう。

 日本の観客の審美眼を育成するにも一役を担う成熟した公演でもあり、企画者に敬意を表したい。

                                

シルヴィア・アッツォーニ、

セミョーン・チュージン「ソナタ」

マニュエル・ルグリ、オルガ・スミルノワ
「OCHIBA ~When leaves are falling~」

田村響(ピアノ)

 特別企画/単独インタビュー 

 マニュエル・ルグリ      インタビュアー:新倉真由美/2019年3月17日愛知芸術劇場にて

Q.現在ウィーン国立バレエ団の芸術監督をしていらっしゃいますが、芸術監督の仕事

     についてお聞かせください。

 

A.  ウィーンには音楽の輝かしい伝統があり、多くの素晴らしい音楽家たちを輩出して

     います。芸術的に優れた都市ですが保守的な一面もあり、正直な所赴任した当初は

     戸惑いもありました。芸術監督としての仕事の進め方についても、パリオペラ座の

     やり方のままではないかと批判され悩んだこともあります。

 

     ウィーンではどうしてもバレエより音楽が重要視されますので、まずバレエの可能

     性を広げ、地位を向上させることが監督としての務めと考えました。

     そのためには新人の発掘も必要と思い、就任後2-3年は何度もオーデイションを行

     いました。勿論既に優秀なダンサーは沢山いましたが、バレエ団に新風を吹き込ん

     で活性化させることも大切だと思ったのです。

     また私は沢山の才能溢れる振付家と親交がありますので、彼らに作品を提供しても

     らいレパートリーを増やす努力をしました。

 

     一方伝統の継承も大切な務めの一つだと思います。今はビデオやインターネットなど

     でステップだけを学ぶことはできますが、重要なのは直接指導し、作品に受け継がれ

     てきた精神を伝えていくことです。私自身多くの教師や振付家や芸術監督からダイレ

     クトにたくさんのことを学んできました。それを若いジェネレーションに伝えていか

     ねばなりません。

 

     私は踊ることは勿論ですが、人を育てたり人と人を繋げたりすることにも情熱を持っています。テクニックだけでなく団員たち

     の音楽性や精神性を高め、様々な作品を見せられるカンパニーとして成熟させるのが私のゴールです。

 

Q. 振付についてお考えはありますか?

 

A. パリオペラ座時代には全く考えていませんでしたが、ウィーンでは2016年に「海賊」2010年にはミラノ・スカラ座と共作で

    「シルヴィア」を振り付けました。振付はたやすいことではなく時間もかかりますので、今は考えていません。

 

Q. 2020年に芸術監督を退任されると伺っていますが、その後はどうされるのですか?

 

A. よく聞かれることで、フリーランスとして踊っていくのか、バレエマスターとして残るのか、また他のバレエ団で後進の指導に

      当たるのか、等いろいろ言われていますが、現時点ではまだ何も決めていません。じっくり考えて最善の選択をしたいと思います。

 

Q. 現在もダンサーとして踊ることについてはどう思われますか?

 

A. バレエを始めてからずっと日々のトレーニングを欠かしたことはありませんでしたが、現在は芸術監督としての務めがあり、以前

      のようにはいきません。ですが「Stars in Blue」では私のための振付作品も披露でき、アーティストとしての面も見せられたと思

      います。日本には35年前に初めて来て以来何回も訪れていますが、このような少人数のコンサートは初めてでした。優れた音楽家        たちとの共演で、お互いに感動し尊敬し合って言葉を超えて理解と信頼を深め、踊りと音楽とのコラボレーションが際立ったコン

      サートになりました。

  

Q.「Moment」では人生の瞬間を切り取り、喜び、苦しみ、戸惑い、安らぎなど様々な感情を表現していらっしゃいましたね。

 

A.   そうですね。あれはナタリア・ホレチナによる創作ですが、自分自身の進化や変容を表せますので、毎回全く違うものになります。

 

Q. 冒頭と終盤にピアノを抱きかかるようにして身を委ねる場面があり、ピアノが母性を象徴しているように見えましたが。

 

A.   それはよい解釈ですね。全てから解放されて母親の腕の中で安らぎを覚えるという感じでしょうか。見てくださる方によって捉え          方は様々で良いし、それがこの作品の魅力でもあると思います。

 

Q. 「Ochiba」ではスミルノワと初共演を果たされましたね。

 

A. パ・ド・ドゥでは大先輩から始まり、同世代、若いダンサーとパートナーは4~5世代に渡ってきたでしょうか。今回バナから

  スミルノワとの共演を提案された時には本当に驚き、初めはためらいました。なにしろダブルスコアほどの年齢差ですから。

  彼女は透明感のある抒情性を持つ美しいダンサーです。とても忙しくリハーサルは余り多くできなかったのですが、お互いにイ

  メージを膨らませて気持ちを合わせ、作品の中に入り込んで踊れました。

 

Q. 前半は離れてそれぞれ踊っていましたが、物理的心理的な距離を表していたのでしょうか。

 

A. はい。是非アレッサンドロ・バリッコの原作「シルク」を読んでみてください。

  日本とフランスを行き来する様子をそのまま表現しています。

 

Q. 二人の抑制された動きから、激しく動く以上に深い気持が伝わり幻想と現実を見まがうような神秘的な作品でした。日本が舞台に

      なっていますが再演のお気持ちはありますか?

 

A. まだ分かりません。ですが、幸い今回の公演では出演者やスタッフと大変良い関係を構築できましたので「New Family」として

      他の国での上演も実現できればと思います。

 

Q. 日本の観客はいかがですか?

 

A.   日本の観客はいつも大変誠実で熱心に鑑賞してくれます。今回はいつも以上に客席も近く反応も身近に感じ、熱い声援を嬉しく

      思いました。

 

Q. ルグリさんにとってバレエとは何でしょう。

 

A. 4歳から始めたバレエは私の人生の全てであり、言葉で説明できるものではありません。

  音楽は自分のインスピレーションで、音楽なしで踊ることは考えられず、血液のように体中を流れているように感じます。私の

      Passion (生き甲斐)です。

 

Q. 日本に限らず数多くのファンがルグリさんしか作り出せない世界を愛し待ち侘びています。どうぞ引き続きご活躍ください。

 

A.  ありがとうございます。

                                                                                       (公演後のトークイベント、その後の特別にインタビューから作成)

撮影:YASKEI 記者会見3月6日

KYOTO EXPERIMENT 2018 京都国際舞台芸術祭

​2018年10月6日(土)~28日(日)

あらたなナラティブの構築へ

文:竹田真理

KYOTO EXPERIMENT京都国際舞台芸術祭2018(10月6日~28日)は、「女性」や「女性性」をキーワードに、公式プログラムのすべてを女性アーティスト、あるいは女性を中心としたグループによる演目で構成し、開催された。作家や作品の多彩さを競うばかりでなく、多分に政治性を含んだ主題を掲げ、観客に問い掛ける今回のあり方は、芸術祭が社会の現実に応答していく意味でも一つのチャレンジだったのではないだろうか。

すべての作品が直截的にフェミニズムの言説を展開したわけではない。ただ、個々の表現に、何かを語ろうとする女性たちの意思が自身の女性性と不可分な形で実を結んでおり、女性が表現における他者ではなく語る主体であることを示していた。コンテンポラリーな芸術領域は既存の表現形式に対する批判や解体が試みられる場といえるが、そこに意味と内容をもった語りが復調し、ナラティブの新たなあり方が印象づけられたフェスティバルでもあった。またその追求に真摯に着手している作家が存在感を示していた。ジョン・グムヒョン『リハビリ トレーニング』は等身大の男性の人形を相手に性的な妄想を自ら掻き立ててゆくソロ・パフォーマンス。淡々と作業の手順を重ねる中で自身の欲望を追求するが、相対化する眼とユーモアがある。ロベルタ・リマ『水の象(かたち)』は京都の酒蔵で働く女性杜氏に取材し、酒造りから発想した水の変容をパフォーマンスで可視化する。きらめく多数の氷の球体や、ドライアイスに湯を掛け白い気体を発生させるなど、科学的な感性と詩的なイマジネーションに満ち、建築から美術、身体へと変遷してきたリマ自身の投影も感じさせた。フォークランド紛争に参戦した両陣営の退役軍人のエピソードを構成し、戦士のトラウマを抱えた男性たちの人

                        生の断面を浮き彫りにしていくロラ・アリアスの理性的な筆致、現代の日本を蝕

                        むジェンダー間の嫌悪・憎悪を、自虐も込めて絶望的に描く市原佐都子の抉るよ

                        うな筆致など、演劇作品もそれぞれの語り口と内容が強く印象に刻まれた。

                        ナラティブの構築という観点から、今回特に高い完成度を見せたのがダンスだっ

                        た。日仏交流160周年、京都・パリ友情盟約締結60周年に当たり、フランスから

                        の2作品を含むヨーロッパの振付家による3つのダンス作品が一度にプログラムさ

                        れたのは、これまでのKYOTO EXPERIMENTでも例のないことだ。

                        KEX.2016 SPRINGに、やはりフランスからダヴィデ・ヴォンパクとボリス・シ

                        ャルマッツが招かれたが、解体された舞踊言語“以後”の風景の中で、身体感覚の

                        極みを追求するパフォーマンスという意味で2作は共通していた。そこから再び舞

                        踊史へ向かおうとする今回の3作品までの距離には大きな意味があると言うべきだ

                        ろう。

 

 

ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』

90年代前半ベルリンのレイブ・パーティーに想を得た作品で、デトロイト・テクノなどダンス・ミュージックが流れる中、集団(人混み=CROWD)とそのドラマトゥルギーが独自の美学のもとに描き出される。パーティーにやってくる15人ほどの男女は、たばこに火を点け、水を飲み、にこやかに会話し、ハグするといったパーソナルな動作を見事なスローモーションで行う。人がどのように集い、関係し、グルーブにのっていくか、やがてハイになった集団がどのように緊張や軋轢を生じ、暴力へと移行していくかが、高い解像度で再現されるのだ。舞台におけるハイパーリアリズムと言っていいだろう。

15人は無造作に集まった群れに等しいが、群れとしても、個としても精密に振り付けられている。音楽はビートを利かせて絶え間なく流れ、時間の経過を表すが、振付は時間を引き延ばし、切断し、流れを主観的に操作する。15人それぞれのストーリーをスコアにし、15本分のトラックをミキシングするような作業で全体を構成しているのだという。沸騰するダンスフロアで拍を合わせながらストップとムーブを繰り返すパフォーマーたち。時にその中の個に焦点が当たる。こうした手法でハラスメントや小さな衝突など、集団における一触即発の、いつでも暴力へ転化しそうなギリギリの状態が、あるいはリズムごとに引き攣りをみせる人物の強迫的な動きが周囲に伝播する過程が、再現される。精度の高い照明がそれらを陰影深く照らし、細密画を見るような印象を作り出している。

群像の中に人間性を見つめる意味で、ピナ・バウシュのタンツテアターを現代の感性で描いているようにも見えるが、絵画や映画に通じた美学が全体を貫いているのは本作ならではだ。とくに項垂れ、疲れ果て、打ち捨てられたような姿態の群像の場面は宗教画のようであり、自らの暴力や愚行を嘆き、神を求めてか、天を仰ぐ者らの姿にはキリスト教の文脈があるようにも思われた。さらに群衆の服に配した象徴的な赤や青の色、蒔かれる水や煙草の煙までもが一つの美学のもとに演出されている。頽廃の中にある精神性、人間の業や罪深さをも含意した、高い完成度をみせる舞台だった。

(10月7日、ロームシアター京都 サウスホール)

 

セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー『DUB LOVE』

アカデミックなテクニックに都市のトライバルなダンスの風俗を混在させるデュオは、前回のKYOTO EXPERIMENTでナイトクラブの狂騒を刺激的に再現した。今回は50年代のジャマイカに端を発するDubに着想し、音楽とダンスと社交の場の享楽を再現するが、その踊りはポアントへのこだわりを執拗に打ち出している。前月、来日したロレーヌ国立バレエがこの振付家デュオの作品を上演したが、ポアント技術のラディカルな変奏にダンス・クラシックの別の地平を見るようだった。今回はこれに続く、ポアントへの偏愛に満ちた作品だ。

上手客席側にDJブース、舞台後方にはスピーカーを重ねたミュージックウォール(音の壁)。Dubと呼ばれるサウンドシステムに必須のPA装置で、タウンホールや屋外でのダンス・イベントを可能にする。ダンサーはベンゴレア&シェニョーに男性を加えた3名。白いボディタイツにトゥシューズをはき、ポワントのまま腰を落とした奇妙な姿勢でステップを踏む。外旋した股関節のガニ股に膝を直角に曲げポワントで立つなど、身体に強い負荷をかけた異形のステップだ。時折クラシックの正統なパを交え、3人はかわるがわる踊る。また3人で手を取り、輪になって踊りに興じる。音楽はレゲエのリズムを電気的に加工してグルーブを誘発する。艶やかに化粧をしたシェニョーはジェンダーを攪乱し、ポワントへの倒錯した美意識を滲ませる。彼のバレエのテクニックが正確にフロアを刻むのにも目を見張らされる。

                          3人の踊りは、時に広場の子供の遊びになり、飽かずその愉悦に興じる。ポワ

                          ントは天上を目指すのでも、白鳥や妖精になるためでもなく、遊び尽くされ

                          遊ぶために身体は拡張され、その機能はダンスフロアの無為の遊戯に浪費さ

                          れる。振付はほとんどステップが中心で、上肢の動きは重要視されない。内

                          面を語るためのフレーズはここからは遠い。

                          一瞬、音楽が途絶えると、トゥシューズが床を打つ音が聞こえる。踊る身体

                          からこぼれ出た現実であり、踊りという業の深さを物語る。終演のライトが

                          ゆっくり落ちると、凍るような虚無感が降りてきた。様々なダンスや音楽の

                          カルチャーを渉猟しながら、踊るという行為の無私、無欲、無益、無為に身

                          を投じるベンゴレア&シェニョー。ジゼル・ヴィエンヌの構築的な美学とは

                          また違ったダンスの哲学を感じさせる。

                          (10月18日、ロームシアター京都 ノースホール)

 

マレーネ・モンテイロ・フレイタス『バッコスの信女―浄化へのプレリュード』

ヴェネツィア・ビエンナーレ2018で銀獅子賞を受賞し、世界から注目されるポルトガルの振付家が初めて日本に紹介された。前評判が高かったが、実際に期待を超えたインパクトがあり、舞台におけるナラティブの到来を告げる意味でも記憶に残る公演となった。ダンス、音楽、歌、身振りなどを構成した舞台は、ギリシャ悲劇に枠を借りた壮大なパロディで、酒と陶酔と舞踊の神ディオニソス(バッコス)に由来する狂騒を2時間以上にわたり繰り広げる。ここにもピナ・バウシュを経由したダンスシアターの現在を見る気がするが、アプローチは大きく異なる。奥行きが浅く横幅を強調した舞台は、人間存在の深奥を追求するより、出来事を叙事詩として語るのにふさわしい。

乱心した信女3人を含むコロスの面々は、メイクや表情を誇張し、潰したダミ声による歌、道具を男根に見立てる身振り、唇や舌や喉を鳴らしてふざける「歌合戦」など、飽くなき「ばか騒ぎ」に興じる。高潔や崇高に敢えて向かわないようにと意味の解体を図るパロディの極致と言えるだろうか。その一方で、舞台にはある種の秩序も感じられる。作品の大枠にはコロスとトランペット隊との対峙があり、配置や動線が視覚的・力学的な構図を作る。平面的な舞台と戯画的な身振りは、ギリシャの壺絵を彷彿させる。ここに音楽史や舞踊史、神話と演劇の歴史、人間の性と生の摂理など、様々な文脈が引き入れられ、ふざけた身振りや行為にも何かしら文化史上の参照がみとめられる。特に音楽劇と言っていいほど、レゲエなどのポピュラーミュージックからクラシックまで多様な音楽が用いられ、ディオニソスにまつわる芸術の豊穣が享受される。「牧神の午後」の振付が現れるシーンもある。

ジゼル・ヴィエンヌはレイブに、ベンゴレア&シェニョーはDubにと、どちらも音楽とダンスの流行や社会的なカルチャーから発想しているとすれば、マレーネ・モンテイロ・フレイタスがアフタートークで語ったのも、出身地カーボベルデ(アフリカの北西の島、旧ポルトガル領)での日常的な生活の中にある音楽とダンス・ショーの経験だった。現代の市民社会に根付いたラフでポピュラーな音楽と、ダンスの民俗や風俗、広範な文化史とその経験が、振付家たちのナラティブの源泉となっているのは興味深いことだ。

(10月21日、ロームシアター京都 サウスホール)

ロラ・アリアス「MINEFIELD―記憶の地雷原」

撮影:Takuya MATSUMI

​提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

撮影:Takuya MATSUMI

​提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

M-laboratory「いなくなる動物」

2018年11月10日(土)

​テレプシコール(東京)

作・構成・振付・楽曲:三浦宏之 出演:三浦宏之、上村なおか

    文:山家誠一 撮影:YASKEI

 

     三浦宏之の主宰するM-laboratoryの新作「いなくなる動物」(作・構成・振付・楽

    曲・出演 三浦宏之、2018年11月10日、東京・テレプシコール)は、観客の中の思

    考(概念)」と「感覚」の間のことをいろいろ考えさせる公演だった。出演は三浦宏

    之と上村なおか。

     三浦によって全体が構成された舞台の展開は、大きな流れを感じさせ、大作といっ

    た趣だった。三浦の訓練された身体の形や上村の動きは、それぞれ今でも記憶に残っ

    ているという意味で、印象的だった。が、生で舞台を見ている時、もう一つ感覚が動

    かなかった。

     もちろん、舞台空間に引き込まれるようなシーンはいくつもあった。例えば、中盤、

    舞台下手で三浦と上村が壁に寄りかかり気味で座っている場面。なぜそこが良かった

    のか。多分、二人がそこに確かに在るという感覚を、身体が作り出す空気が作り出し

    ていたからだろう。つまり、筆者の感覚は、そこの空間に引き込まれ、そこの空間と

    一体となり、「その時」を筆者の身体の中に感じることが出来たということだ。感動

    するとは、そういうことだろう。身体同士が作り出す見えない膨らみが必要なのだ。

   (これは舞踏が好きな筆者の感覚に過ぎない)

     もう一つ、この「いなくなる動物」の舞台で興味深かったのは、先に述べた「感覚

    が動かなかった」ことにも一面では繋がるのだが、構成された舞台ではあっても、三

    浦と村上、二人の動きや形がそれほど「揃っていない」ことだった。身体の形や動き

    に振り付けされた強さが必ずしもある訳ではなく、かと言って、変化自在の身体同士

    の即興でもない。中途半端な曖昧さがあった気がする。肯定的に言えば、その身体と

    身体の流れの中の「隙間」が面白かったということだろう。 

 しかし、「いなくなる動物」の、筆者にとっての最大の刺激は、一連の身体動作の流れの中に、意味すなわち概念構成らしきものを見出した時に訪れた。四肢をぐにゃぐにゃ動かしている様子から、粘菌を連想し、次いで壮大な生命史をイメージしたのであった。それは観客である筆者の勝手な読み取りであり、表現者自身の思いとはあまり関係ない。関係はないのだが、一連の身体仕草の中から、筆者の感覚が取り出した形だった。それは生命史という概念構成=物語へと勝手に集約されて行く。不可解さの中を漂う思考が、あるイメージ=概念を掴んだ瞬間に、その日の公演の感覚的体験の全体を、その概念を要に組み立てて行く。それは体験を言葉にして行く、つまり思考して行く面白さでもあると同時に、不可解な不安が消えて行く詰まらなさの進行でもあった。このほとんど同時に起こる二律背反の感覚は発見だった。それは混とんの中から言葉が立ち現われ、それが世界を可視化すると同時に世界を固定化し、現実体験の生成力を奪い去っていくことと同じだ。つまり、表現の面白さは、分かる=分からなさの瞬間にあるということを、この舞台は体験させてくれたのだった。

 最後にこの公演「いなくなる動物」でストレートに魅力を感じたのは三浦宏之の手になる音楽、音響だ。動物の唸り声や風の音、カラスの鳴き声と言った環境音、自然音に重ねられたピアノの単音による旋律は美しく、その暗さと抒情性によって身体空間のトーンを支えていた。

 総じて、曖昧さの中から物事=意味が浮かび上がる二律背反の瞬間を体験させてくれた公演だった。以上、筆者が、「いなくなる動物」の作者のテーマとは全く別個に、三浦宏之と上村なおかの一連の仕草の中から感じたことだ。 

 英国からの便り 

Scottish Ballet

スコティッシュ・バレエ『シンデレラ』

2018年12月22日 

フェスティバル・シアター、エディンバラ

振付:クリストファー・ハンプソン(Christopher Hampson)

音楽:セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Prokofiev)

舞台:トレーシー・グラント・ロード(Tracy Grant Lord)

照明:ジョージ・トムソン(George Thomson)

文:印南芙紗子 写真提供:スコティッシュ・バレエ団

 

 1969年にピーター・ダレル(Peter Darrell)により創立されたScottish Ballet/スコティッシュ・バレエは、今シーズン2019年で50周年を迎える。そのクリスマス・シーズンをスコットランドの主要都市であるエディンバラ、バレエ団の本拠地であるグラスゴー、アバディーン、インバネスと、イングランド北部のニューカッスルへのツアーで飾る演目が、バレエ団の芸術監督であるクリストファー・ハンプソン振り付けによる『シンデレラ』。そもそもローヤル・ニュージーランド・バレエのために2007年に作られた本作品が、スコティッシュ・バレエによってヨーロッパ初演されたのが2015年。今回はその再演となる。

 

通常の大掛かりなバレエに比べると少人数で構成されることが多い当バレエ団の本作品では、1人のダンサーが複数の役柄を担う----極端な例では、意地悪な姉と仙女という正反対の役柄まで----ことがある。そのため創作過程では、登場人物の人間性を理解し演じるためのダンサーたちと振付家との間の対話が重要となる。『シンデレラ』は他のバレエ作品に比べて決闘や悲劇の死といったドラマティックな場面が少なく、プロコフィエフの音楽も全般的に落ち着いているため、ダンサーの身振りや表情、衣装、群舞、セットなどで作品の抑揚が表現される傾向が強くなる。民話に基づき広く知られる『シンデレラ』の登場人物に関する理解がバレエ作品において特に重要となるのは、そのような理由からだ。役柄の細かな解釈やそれを表現する演技、衣装による役柄の転換への配慮は、演目の特性上、子供からお年寄りまで広い年齢層や家族連れの観客とコミュニケーションをとる上でも重要になる。『ロミオとジュリエット』の情熱的な火のような旋律と対比して、冷静な氷のようと表現されるプロコフィエフの『シンデレラ』だが、踊りと同様、ドラマティックな転換が少ない分、音楽も小さな変化で登場人物の心情変化―例えば舞踏会から戻った寂しさに浸るシンデレラが舞踏会を思い出してはもう一度興奮を味わうなど―が表現される。1935年に『ロミオとジュリエット』の作曲を終え『シンデレラ』の作曲に移ろうとしたプロコフィエフは、スターリン政権下で1930年代後半より創作の自由を制限される。ストレスに悩み、1945年のボリショイでの『シンデレラ』初演を経て、プロコフィエフは1953年、スターリンと同じ日にその生涯を終えるが、繊細な旋律は、表現豊かな動きと共に今も生きる。

 

若年層の付属バレエクラスから痴呆やパーキンソン病をもつ老年層のためのダンスまで、スコティッシュ・バレエの担う地域での役割は大きい。大所帯のバレエ団と異なり、コンパクトな規模で運営しながら多くの複数の役を担う小さなバレエ団は、今後日本のバレエ界にとっても参考になりそうだ。                                                                         

Dance New Air 2018    

パウラ・ロソレン/Haptic Hide『Aerobics!-A Ballet in 3 Acts』 

2018年10月14日(日) スパイラルホール(東京)

文: 竹重伸一

ポスト・モダンダンスは、日常の身振りや一般人をダンスに取り込み、それまでいつも特権的な身体や技術を持つダンサーと共に語られてきたダンスを「民主化」することには成功したが、それは結局「踊る」ことと「踊らない」ことという二項対立を作り出すに止まり、真の「踊る」ことの革新には至らなかったように思う。しかし、この作品で振付家のパウラ・ロソレンは明らかにその先の領域を切り開いた。

ダンサーは、ロソレンを含む女性5人と男性2人の計7人。それぞれ虹の7色のタンクトップ、ショートパンツ、靴下、スポーツシューズを身に着けた国籍も体型も様々なダンサーたちは、一見した所スホーツジムに通っている世界中の普通の人たちと何も変わらない。そして彼らが踊るのは誰でも知っているエアロビクスの動きなのである。初演から5人のダンサーが入れ替わっていることからしても、この作品はプロのダンサーのためのダンスではない。その点ではポスト・モダンダンスのコンセプトを確実に受け継いでいると言えよう。しかしこの舞台には最後まで音楽は全く流れない。代わりに我々が聴くのは、7人のダンサーが延々と刻み続ける軽快なランニングやステップの足音と息遣い、それに何度かダンサーから発せられる、「sexy、sexy」というユーモラスな掛け声だけである。エアロビクスのステップは細かく分析・解体されてある単位で一つのイディオムを形成し、幾つかのイディオムとそのバリエーションが複雑に組み合わされながら何度も何度も反復される。そしてステップの変化に身振りとフォーメーションの変化が常に伴っていて、我々は視覚的にもバリエーションと反復を刻まれることになる。タイトル通り古典的な3幕構成でできているにもかかわらず、そこには序破急のようなドラマティックな展開はない。そこで我々が出会うのは始まりも終わりもない無限の循環する時間であるが、それこそ生命そのもののリズムだと感じられるのである。一方空間的にも緻密に考えられている。7人のダンサーのシンメトリーな配置を基本としながら、空間の幅と奥行きと高さを存分に使い切ったとても抽象的な振付である。特にバレエとは違った形での身体の垂直線への意識が面白い。もちろんバレエのポワントが使われるわけではないし、多用されるアラベスクの踊りも不器用で重たくバレエのような浮遊感があるわけではない。ダンサーの体型に対する美学的な配慮が欠けているように、ダンスにおける重力は決してネガティブなものと考えられていないのだ。しかし、絶えずランニングやステップで「跳び」続けるダンサーたちの身体は、大地と天、重力と跳躍との間で対話をし続けているかのようである。そして時折起こる不意の転倒が、更に我々の垂直線ヘの意識を高めさせる。

エアロビクスは、元々1960年代にアメリカ空軍のパイロットの訓練として開発されたものが、1980年代に資本主義社会に要求される規律や体力を養う訓練として競技化され世界中に広まったものである。この作品は、そのいわば資本主義の申し子のようなダンスのイディオムを使って現代社会のシステムを内破する。先に「生命そのもののリズムだと感じられる」と書いたが、それは決して原始のアプリオリなリズムへの回帰ではなく、システムによって歪められた苦い痕跡を伴っているのだ。操り人形のように舞台上でひたすら動き続けるダンサーたちに怖ろしささえ感じてしまうのは、彼らが、異常な速度で脇目も振らずに前進する資本主義に翻弄されて生きざるを得ない我々一人一人の姿でもあるからだし、その未来の破局までも予感させられるからではないだろうか。

 

 

Dance New Airは東京・青山を中心に、劇場空間だけではなく、屋外のスペースや映画館、ブックセンターなど様々な場所を舞台にダンスを透して新たな可能性を提案 していきます。また、未来へ向けて身体表現を主とするアーティストたちの活躍をバックアップし、活性化するためのプラットフォームとしても邁進していきます。

撮影:Yulia Skogoreva(上2点とも)

 NYレポート 

ルシンダ・チャイルズの最新の活動2018

Available LightRose Theater, New York

Lucinda Childs Dance Company

2018年7月12日~13日  

文:印南芙沙子

 

ルシンダ・ チャイルズ (Lucinda Childs) 振付、ジョン・アダムズ (John Adams) 音楽、フランク・ゲーリー (Frank Gehry) 舞台デザインというコラボレーションが、1983年に初めてロサンゼルス現代美術館 (Museum of Contemporary Art in Los Angeles) に委託される形で “Available Light” という作品において実現してから30年以上の時を経た。今回その作品が、ニューヨークのリンカーン・センターで毎夏行われるMostly Mozart Festival のプログラムの一つとして、同メンバーで再現されることになった。ミニマルな反復の音楽がドラマティックに重層化してゆくアダムズの曲を身体化するかのように、チャイルズの振付で踊るカンパニーダンサーたちの動きも実にシンプルなパターンが複数に層を成して展開していく。

 

異なる音響と、暗く、明るく、赤く舞台を染める照明によりそれぞれ違う場面に見えてくるが、実はダンサーたちの踊っている一連のユニゾンのパターンはほとんど最初に現れたものが発展したもの。それでも単に反復に止まらずにある種の美に繋がっていくのは、それこそがチャイルズの技なのだと思わせる。ゲーリーの舞台装置は奥が2階建ての舞台のようになっており、上の階でも下で踊るダンサー達とシンクロして2人もしくは3人が踊る。その場合も上下の振付は同じで、踊る階・方向が違うだけだ。マース・カニングハム等をはじめとした偶然性を含むダンスでは、舞台の「正面」という概念が取り去られた。NYグリニッジ・ヴィレッジにあるジャドソン・ダンス・シアターからキャリアを始めたチャイルズ自身、この影響を受けたことを思い出させる。そしてこの作品において、作品の展開というのは動き自体がクレッシェンドしていくというよりは、ダンサー達の動きによる空間の交差が次第に大きくなっていくということを指す。作品の展開は非常に僅かで、静かで、発展を見ているのでなく微妙なtransition― 移り変わり―を観ているのだと思わせる。今回はカシア・ウォリカ・マイモーネ (Kasia Walicka Maimone) が担当した、それぞれ黒、白、赤の初演の時よりもさらにシンプルでミニマルな衣装も、ダンサー達が舞台上をすれ違い交差する際に効いてくる。

 

今回の公演プログラムにも改めて掲載された、1983年初演時にスーザン・ソンタグが書いたレビューも精彩を放つ。曲や振付だけでなく、それを語る言葉も場合によっては色褪せないということを伝えるかのように。チャイルズの振付はバイリンガルなダンサーを要すると、ソンタグは書く。チャイルズが “モダン・テクニック” の最も適したものとして考えるカニングハム・テクニックのモダン言語と、バレエのクラシック言語の両方ということだ。音や舞台装置も含めて、双方が相反するようでいて実際は互いに関わり伝え合い、一つのポリフォニックな空間を成しているのは、30年を経た今でも新鮮なものがある。既成のものを壊すだけでなくそれと深く関わり合いながら新しい言語を模索するその過程も、やはり時代やジャンルに関わらず創作には必要なのだと思い出させる、そんな舞台だった。

 

ルシンダ・チャイルズ(NY出身/1940~)

マース・カニングハムの栄光を受け、ジャドソン教会のグループに参加。イヴォンヌ・レイナー、ローラ・ディーンなど共にポストモダンのリーダー的存在。77年にロバート・ウイルソン、フィリップ・グラスらと「浜辺のアインシュタイン」を発表、92年東京アートスフィアのオープン、こけらで上演。

現代舞踊協会夏期舞踊大学講座・野村萬斎ワークショップ

「ダンスDNAとコンテンポラリーな身体」

2018年8月22日(水)~23日(木) 東京/石井みどり折田克子舞踊研究所

 

文: 新倉真由美

現代舞踊協会が主催する夏期大学舞踊講座では、2009年から「ダンスDNAとコンテンポラリーな身体」と銘打ち国内外の現代舞踊のパイオニアを取り上げシンポジウムとワークショップを行ってきたが、その趣旨を一歩深め日本の伝統芸能に学びクリエイションの世界を探る新シリーズを展開。第1回は狂言界の第一人者である野村萬斎氏と現代舞踊の中村しんじ氏が講師を務めた。

萬斎氏によるワークショップをリポートする。会場は石井みどり折田克子舞踊研究所。現代舞踊の歴史を感じさせる趣あるスタジオに続々と参加者が集合。受講者は足袋または靴下を着用する。

ワークショップの幕開けは礼。両手を床につき背筋を伸ばしたまま上半身を前屈させる礼は辛いところを通ることが大切、それにより日常から非日常へのスイッチが入るとの解説。引き続き雑巾がけで場を清める。足の裏に体重を感じ、腰を上げてゆっくりと行う。

次に「構エ」と呼ばれる横から見てジグザグになる基本姿勢を習得する。続く「運ビ」ではその姿勢を保ったまま、腰を落としすり足で前進する。まず精神を集中し進む方向の先を見てあごを引き、陽とされる左脚からつま先を上げずに進む。首は緊張感を持ち、重力を一つに保ってバランスを取る。「一つ一つの動きが時空を超えるように」という指示を受け、受講者はそれぞれイメージを思い浮かべながら静々と歩む。

更に「キノコ歩き」と呼ばれる蹲踞の姿勢での移動に挑戦。これは足首が柔軟であることが必要になり負荷がかかるが、日ごろ鍛えているダンサーたちは比較的スムースに行い、縦横無尽に移動を試みる。

後半は面をつけ狭い視野を実感。狂言は面をつける役の時は、面の向きで感情を、足を鳴らす、飛ぶなどで喜怒哀楽を表現する。受講者は各々鏡で自分の姿を確認し前進、後退、跳躍また舞踊の動きなどを体験し、前しか見えないことで瞑想的になり自分の世界に浸れるという声も聞かれた。萬斎氏は自分が演奏しているように舞うよう指導し、常に逆のベクトルを意識することで動きに重厚感が加わると語った。

異分野の芸術に観客としてではなく実際に触れる機会は稀で、日本の伝統芸能を牽引する萬斎氏から直接指導を受けたことの意味は大きく、体得した貴重な感覚や知識をそれぞれの創作活動に還元していって欲しい。 (8月22日)

ダンスがみたい!20 お題、土方巽「病める舞姫」。
2018年7月24日(火)~8月5日(日) 東京/d-倉庫

 

文:竹重伸一


室伏鴻は土方巽の『病める舞姫』を「〈止める(止めたい)〉舞姫」と読んで、そこに土方の「〈舞踏〉の創作・振付上の出来事への意欲の衰弱」を見て取ったが、私も全く同感である。特に土方のことをほとんど知らないであろう若い世代に、このテキストだけを通して土方巽のイメージが形作られることには、彼のダンス革命の核心が伝わらなくなる危惧を感じざるを得ないのだが、今回の3公演(全7公演中)を観て、果たしてその危惧が裏打ちされてしまったように思えた。笠井叡が当日パンフに書いていた、1963年の『あんま―愛慾を支える劇場の話』の舞台上に出現したという土方の「凶器身体」こそがまさしく重要なのだが、当の笠井の作品を含めて残念ながらそうした危険な身体は今回舞台上に立ち現れなかったのである。「凶器身体」とは私なりに言い換えれば、私的な人間的感情を剥奪されたモノとしての身体、It(それ)に変容した非人称の名づけ得ぬ身体である。
伊藤キムのソロ(7月29日昼)は、明らかに意識の上ではそういうことを目論んでいたように思える。だが彼自身が当日パンフに書いていたような「見知らぬ誰か」は本当に舞台上に現れて来ただろうか?確かに公演半ばでトレードマークの眼帯を外し、鬘と黒眼鏡に黒いジャケット姿で登場した時には一瞬「何者か」と思わせたが、それは結局演劇的な変身でしかなく、ダンスからは以前の伊藤が持っていた空間を変容させるような独特な粘っこさは完全に消え失せていて、ただ四肢が空間に軌跡を描いていくだけであった。伊藤キムは最後まで伊藤キムでしかなかったのである。黒田育世のソロ(8月3日)には構成に土方からの影響が見て取れた。それは情感の脈絡を無視するかのような各シーンの不意の切断であり、それによって今までのいささか情動的過ぎる黒田作品にはなかった硬質な断面が生まれたことは評価したい。しかしダンス自体は、音楽に寄り添った内面の表現=モダンダンスに時折バレエのパが加わるもので全く主観的なものに止まっていた。例えば前半で土方の『疱瘡譚』のソロダンスシーンがコピーされていたが、仰向けで浮かせた手足は意志的な筋力だけでキープされていて、神経の震えが現れては来なかった。笠井叡構成・演出・振付の自身を含めた6人の男性ダンサーによる『土方巽幻風景』(8月5日夜)は、『病める舞姫』よりも前述した『あんま』のリクリエーションをベースにした作品。笠井の狙いは、1960年代の土方作品が持っていた時代を挑発する野蛮さを現代に復活させることであったはずだ。それだけにいつもの笠井作品よりも身体がモノに近づいていたとは思う。だが、それでもダンスの有機的な運動性が停止するところまではいかない。生に潜む不在の空虚は隠蔽されたままであった。後半に全員で踊りながら朗読された吉岡実の詩『僧侶』も、滑らか過ぎるダンスと朗読で、詩が描き出すゴツゴツするモノの残酷さが伝わってこなかったのである。
同時に企画された新人シリーズ16の受賞作品再演(7月25日)では、新人賞受賞作品の今枝星菜『執行猶予』とオーディエンス賞受賞作品の水中めがね∞(演出/振付/出演 中川綾音)『有効射程距離圏外』が上演された。2人は共にバレエ出身ながら、身体から外へ外へと展開していくバレエのムーブメントを禁じて、逆に身体の内に内にと向かうダンスを志向している点には好感を持った。特に今枝の方は、ハンス・べルメールの人形のようにエロティックで物質化された身体を探求していて、より空間的に濃密なダンスである。しかし内転する動きだけではダンスも身体も窒息してしまうだろう。本当に空間的なダンスは、硬直・痙攣に至るほど内転と外転が拮抗した時に深々とした呼吸と共に生まれて来るはずだ。一方中川の方は、身体的探求という点ではまだ緒についたばかりだが、劇場という虚構空間と日常の明確な境界線に疑問を持ち、ダンスというメディアで世界をそのありのままの猥雑さや不穏さごと引き受けようという気概を感じた。好対照な資質を持った2人だが、共に今後の活動が楽しみである。

国際バレエアカデミア公演 ミックス・プログラム名作品集

2018年6月22日(金)東京/新宿文化センター大ホール

「牧神の午後」

文:新倉真由美

国際バレエアカデミアは、1987年に「東京ユニバーサルバレエ団」として発足し1990年以来活動してきた「東京小牧バレエ団」が、2009年にさらなる発展を求めて改称し特定非営利活動法人として設立されたバレエ団である。「伝統と実績を踏まえ新たな出発」を掲げ、今回の演目は古典・近代・創作と多彩なラインアップだった。

「バラの精」と「牧神の午後」は1944年に小牧正英が上海で上演し好評を博している。バラの精を演じた大藤明礼生はポジションの甘さなどはあったが安定したピルエットやジャンプも見せ、丹念に役に取り組んだ姿勢を伺わせた。

「新世界」は小牧正英がドボルザークの音楽からストーリーを作り出すという画期的な方法で振り付け1950年に初演した作品。希望を胸にアメリカ大陸に渡り、開拓中の束の間のひと時を三組の男女がクラシックバレエのテクニックを用いて表現した。

最後は「海賊」からの抜粋、モンゴルのアヌジン・オトゴントゥグスとビャンバ・バットボルトによるメドーラとコンラッドのグラン・パ・ド・ドゥや花園の場面などで華やかに締めくくった。

しかし今回の公演の真骨頂は「牧神の午後」にあった。1912年にパリで初演されたニジンスキーの名作はルドルフ・ヌレエフを始め多くのダンサーによって踊り継がれ、今回はドビュッシーの没後100年にもあたり、この役で既に絶賛を浴びているアルタンフヤグ・ドゥガラーが牧神を演じた。人間の想像の産物である半獣神の姿が独特な手足の使い方や咆哮しているように大口を開けるポーズを用い、如実に描き出された。今後も創始者である小牧正英の遺志を継ぎ、様々な作品を振付家の魂と共に継承することをミッションとし発信し続けていくことを祈念したい。

​「バラの精」

​「海賊」

撮影:飯田耕治

​  (舞台4点とも)

​「海賊」

<文化庁新進芸術家海外研修制度50周年記念・文化庁芸術家在外研修員の会設立30周年記念>

I.O DANCE FLAME2018

2018年1月24日~25日 東京/シアターX

①石原完二 モダンダンス「亡者たちの宴」振付:石原完二

②中西優子 モダンダンス「attract―惹きよせられる」振付:中西優子※画像なし

③仲野恵子 現代舞踊「アクア…今、ここ」

④能美健志 コンテンポラリーダンス「Harmonization」構成・振付:能美健志

⑤松山善弘 コンテンポラリーダンス「Zone of Resonance」振付:松山善弘

⑥山元美代子 モダンダンス「人×人×人」演出・構成・振付:山元美代子※画像なし

⑦渡辺福代 ジャズダンス「A Taste Of Jazz」振付:チェット・ウォーカー 渡辺福代

⑧高瀬多佳子 現代舞踊「エンゼル」出演:高瀬多佳子

撮影:YASKEI

2018都民芸術フェスティバル参加公演

現代舞踊協会「魂のDance in Tokyo」

2018年3月15日~16日 東京芸術劇場プレイハウス

                         

文:児玉初穂

 

今年の都民芸術フェスティバル参加公演は、コンテンポラリー系、バレエ系のモダンダンス2作とフラメンコ1作によるプログラム。3作共にレヴェルの高い作品だった。

幕開けは菊地尚子振付の『シンフォトロニカ・フィジクロニクル』。ラヴェルの「ボレロ」を使用、男性2人、女性18人が準備運動の後、台に乗った菊地の指揮で音そのものと化して踊る。正座からくるりと仰向けになりゴロゴロ転がるなどの床使い、立ってはヒヨコのような中腰歩きやペンギンのような前屈フォルムなど、面白い動きの連続に目を見張った。大前裕太郎と菊地のコミカルなやりとり、木原浩太の躍動感あふれるソロを交えながら、時にベジャールを引用しつつ、菊地の指揮はダンサーと一体化する。動きが生み出す熱いエネルギー、さらには体によるコミュニティが形成される様を、目の当たりにした。

二作目は石井智子振付の『グラナダ ―ロルカ― 』。詩人ロルカの言葉に触発された4景からなる創作フラメンコである。女声カンテによるロマたちの素朴な踊りに始まり、男声カンテによる月(石井)と少年(岩崎蒼生)の神秘的な交感、銀色の女性たちが白いベールでフォルムを作る月世界、最後は白いジャスミンの花と黒い牡牛が踊り合う迫力の男女群舞で終わる。変化に富む構成、詩的な演出が素晴らしい。ロルカの詩を身体化する際のクリエイティヴな変換に驚かされた。男性役を踊る女性のマニッシュな魅力にも。石井のゴージャスな踊り、松田知也、土方憲人、中原潤の渋い踊り、岩崎の清新な踊りが、フラメンコの核心を伝えている。

最後は野坂公夫・坂本信子振付の『時の器』。野坂と坂本を精神的柱に、17人の女性と1人の男性がスピリチュアルな世界を構築する。バレエを基盤とした振付は、すり抜けるような、揺蕩うような流動性に満ちている。一列になってのユニゾン、カノンは儀式的。ワシントン&リヒターを使用した前半は、ソウルフルな歌声に呼応した情念の世界、P・グラスを使用した後半は、ミニマルな反復が、切りつめられたプロテスタンティズムを思わせる。女性陣の水玉模様のワンピースは少女の表徴。野坂を中心とした霊的コミュニティが背後にはある。その中で、池田美佳が神秘的な美しさと透明なエロティシズムで、野坂世界の語り部となった。幽霊のように左右に揺れる妖しいソロは、圧巻だった。

菊地尚子『シンフォトロニカ・フィジクロニクル』

石井智子『グラナダ―ロルカ―』

野坂公夫・坂本信子『時の器』

撮影:池上直哉 提供:現代舞踊協会

河野潤追悼公演「在りし日の歌」

2018年1月27日~28日​ 東京/日暮里サニーホール

​文:児玉初穂

 

2016年6月27日に亡くなった河野潤の追悼公演が、二日間にわたり開催された(1月27,28日 日暮里サニーホール)。

主催は河野潤追悼公演実行委員会、制作は河野潤ダンストゥループ・DANCE BRUT。ロビーには多くの花と共に河野の舞台写真が飾られている。ドラマティックなフォルム、ダイナミックな跳躍やスプリットが、ダンサー河野の全盛期を偲ばせる。中央の映像モニターでは、河野の舞踊人生を公演プログラムで俯瞰する『舞踊家 河野潤』(作成:清水フミヒト)。結びの「踊りよりも人生の方が難しい」という言葉に、舞踊家としての河野の立ち位置が集約されていた。

二部構成の第一部は所縁の人々の作品集、第二部は河野作品から6作が選ばれた。第一部幕開けは山田恵子の『ミサ・フラメンカ』、最終演目は森嘉子の『死するまで紅色にもえて』。河野と共に舞台に立ったベテランが、痛切な哀悼のソロと、自分の現在を突き詰めるソロという対照的な踊りで、河野との在りし日を偲んだ。弟子たちは4作。清水真理子は師への想いを丁寧に紡いだ美しい群舞作品『月明りの中に』、育麻咲美は久田洋子との耽美的なデュオ作品『桜の花びら、はらはらと』、高橋眞琴は日本リズムムーブメント指導者協会の一同と共に、エネルギッシュなジャズダンス作品『今この瞬間を捧ぐ』、櫻井由美は引地由美とのすっぴんデュオ作品『Su』で、河野から教えられた振付家魂を炸裂させた。

第二部は1985年から2009年までの多彩な河野作品。順に、深い情念が前面に出た群舞作品『枯葉地に舞う』。常套句を含まない高度な振付と、少女の色気が綯い交ぜになったコンテンポラリー作品『薔薇七章』より「黄色い薔薇」。藤原悦子のクールで繊細なライン、清水フミヒトの力強いサポートが男女の機微を描き出す『歪んだ二重奏』。シベリウスのバイオリン協奏曲を用いた抒情的なシンフォニック・ダンス『花のある風景』。対照的に、鈴木レイ子、佐藤一哉(怪演)、清水が揃った奇天烈な『ゼロ・ポイントⅡ 無明長夜の果てに』より「トリオ」。手をスリスリ、パッパ、パ・ド・ブレなど、何かしらおかしな振りが入る。最後は、混沌とした若いエネルギーが爆発する群舞作品『今は飛べない鳥たちよ』。若い一団を、帽子を被った池澤信一の河野が見守る(初演時は河野自身)。遺作の『帰ってきたピーターパン』同様、最後まで生を、踊りを追求した河野らしい作品だった。カーテンコールのあとは総踊り。天国の河野に手を振って追悼公演は幕となった。