REVIEW
KYOTO EXPERIMENT 2018 京都国際舞台芸術祭
2018年10月6日(土)~28日(日)
あらたなナラティブの構築へ
文:竹田真理
KYOTO EXPERIMENT京都国際舞台芸術祭2018(10月6日~28日)は、「女性」や「女性性」をキーワードに、公式プログラムのすべてを女性アーティスト、あるいは女性を中心としたグループによる演目で構成し、開催された。作家や作品の多彩さを競うばかりでなく、多分に政治性を含んだ主題を掲げ、観客に問い掛ける今回のあり方は、芸術祭が社会の現実に応答していく意味でも一つのチャレンジだったのではないだろうか。
すべての作品が直截的にフェミニズムの言説を展開したわけではない。ただ、個々の表現に、何かを語ろうとする女性たちの意思が自身の女性性と不可分な形で実を結んでおり、女性が表現における他者ではなく語る主体であることを示していた。コンテンポラリーな芸術領域は既存の表現形式に対する批判や解体が試みられる場といえるが、そこに意味と内容をもった語りが復調し、ナラティブの新たなあり方が印象づけられたフェスティバルでもあった。またその追求に真摯に着手している作家が存在感を示していた。ジョン・グムヒョン『リハビリ トレーニング』は等身大の男性の人形を相手に性的な妄想を自ら掻き立ててゆくソロ・パフォーマンス。淡々と作業の手順を重ねる中で自身の欲望を追求するが、相対化する眼とユーモアがある。ロベルタ・リマ『水の象(かたち)』は京都の酒蔵で働く女性杜氏に取材し、酒造りから発想した水の変容をパフォーマンスで可視化する。きらめく多数の氷の球体や、ドライアイスに湯を掛け白い気体を発生させるなど、科学的な感性と詩的なイマジネーションに満ち、建築から美術、身体へと変遷してきたリマ自身の投影も感じさせた。フォークランド紛争に参戦した両陣営の退役軍人のエピソードを構成し、戦士のトラウマを抱えた男性たちの人
生の断面を浮き彫りにしていくロラ・アリアスの理性的な筆致、現代の日本を蝕
むジェンダー間の嫌悪・憎悪を、自虐も込めて絶望的に描く市原佐都子の抉るよ
うな筆致など、演劇作品もそれぞれの語り口と内容が強く印象に刻まれた。
ナラティブの構築という観点から、今回特に高い完成度を見せたのがダンスだっ
た。日仏交流160周年、京都・パリ友情盟約締結60周年に当たり、フランスから
の2作品を含むヨーロッパの振付家による3つのダンス作品が一度にプログラムさ
れたのは、これまでのKYOTO EXPERIMENTでも例のないことだ。
KEX.2016 SPRINGに、やはりフランスからダヴィデ・ヴォンパクとボリス・シ
ャルマッツが招かれたが、解体された舞踊言語“以後”の風景の中で、身体感覚の
極みを追求するパフォーマンスという意味で2作は共通していた。そこから再び舞
踊史へ向かおうとする今回の3作品までの距離には大きな意味があると言うべきだ
ろう。
ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』
90年代前半ベルリンのレイブ・パーティーに想を得た作品で、デトロイト・テクノなどダンス・ミュージックが流れる中、集団(人混み=CROWD)とそのドラマトゥルギーが独自の美学のもとに描き出される。パーティーにやってくる15人ほどの男女は、たばこに火を点け、水を飲み、にこやかに会話し、ハグするといったパーソナルな動作を見事なスローモーションで行う。人がどのように集い、関係し、グルーブにのっていくか、やがてハイになった集団がどのように緊張や軋轢を生じ、暴力へと移行していくかが、高い解像度で再現されるのだ。舞台におけるハイパーリアリズムと言っていいだろう。
15人は無造作に集まった群れに等しいが、群れとしても、個としても精密に振り付けられている。音楽はビートを利かせて絶え間なく流れ、時間の経過を表すが、振付は時間を引き延ばし、切断し、流れを主観的に操作する。15人それぞれのストーリーをスコアにし、15本分のトラックをミキシングするような作業で全体を構成しているのだという。沸騰するダンスフロアで拍を合わせながらストップとムーブを繰り返すパフォーマーたち。時にその中の個に焦点が当たる。こうした手法でハラスメントや小さな衝突など、集団における一触即発の、いつでも暴力へ転化しそうなギリギリの状態が、あるいはリズムごとに引き攣りをみせる人物の強迫的な動きが周囲に伝播する過程が、再現される。精度の高い照明がそれらを陰影深く照らし、細密画を見るような印象を作り出している。
群像の中に人間性を見つめる意味で、ピナ・バウシュのタンツテアターを現代の感性で描いているようにも見えるが、絵画や映画に通じた美学が全体を貫いているのは本作ならではだ。とくに項垂れ、疲れ果て、打ち捨てられたような姿態の群像の場面は宗教画のようであり、自らの暴力や愚行を嘆き、神を求めてか、天を仰ぐ者らの姿にはキリスト教の文脈があるようにも思われた。さらに群衆の服に配した象徴的な赤や青の色、蒔かれる水や煙草の煙までもが一つの美学のもとに演出されている。頽廃の中にある精神性、人間の業や罪深さをも含意した、高い完成度をみせる舞台だった。
(10月7日、ロームシアター京都 サウスホール)
セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー『DUB LOVE』
アカデミックなテクニックに都市のトライバルなダンスの風俗を混在させるデュオは、前回のKYOTO EXPERIMENTでナイトクラブの狂騒を刺激的に再現した。今回は50年代のジャマイカに端を発するDubに着想し、音楽とダンスと社交の場の享楽を再現するが、その踊りはポアントへのこだわりを執拗に打ち出している。前月、来日したロレーヌ国立バレエがこの振付家デュオの作品を上演したが、ポアント技術のラディカルな変奏にダンス・クラシックの別の地平を見るようだった。今回はこれに続く、ポアントへの偏愛に満ちた作品だ。
上手客席側にDJブース、舞台後方にはスピーカーを重ねたミュージックウォール(音の壁)。Dubと呼ばれるサウンドシステムに必須のPA装置で、タウンホールや屋外でのダンス・イベントを可能にする。ダンサーはベンゴレア&シェニョーに男性を加えた3名。白いボディタイツにトゥシューズをはき、ポワントのまま腰を落とした奇妙な姿勢でステップを踏む。外旋した股関節のガニ股に膝を直角に曲げポワントで立つなど、身体に強い負荷をかけた異形のステップだ。時折クラシックの正統なパを交え、3人はかわるがわる踊る。また3人で手を取り、輪になって踊りに興じる。音楽はレゲエのリズムを電気的に加工してグルーブを誘発する。艶やかに化粧をしたシェニョーはジェンダーを攪乱し、ポワントへの倒錯した美意識を滲ませる。彼のバレエのテクニックが正確にフロアを刻むのにも目を見張らされる。
3人の踊りは、時に広場の子供の遊びになり、飽かずその愉悦に興じる。ポワ
ントは天上を目指すのでも、白鳥や妖精になるためでもなく、遊び尽くされ
遊ぶために身体は拡張され、その機能はダンスフロアの無為の遊戯に浪費さ
れる。振付はほとんどステップが中心で、上肢の動きは重要視されない。内
面を語るためのフレーズはここからは遠い。
一瞬、音楽が途絶えると、トゥシューズが床を打つ音が聞こえる。踊る身体
からこぼれ出た現実であり、踊りという業の深さを物語る。終演のライトが
ゆっくり落ちると、凍るような虚無感が降りてきた。様々なダンスや音楽の
カルチャーを渉猟しながら、踊るという行為の無私、無欲、無益、無為に身
を投じるベンゴレア&シェニョー。ジゼル・ヴィエンヌの構築的な美学とは
また違ったダンスの哲学を感じさせる。
(10月18日、ロームシアター京都 ノースホール)
マレーネ・モンテイロ・フレイタス『バッコスの信女―浄化へのプレリュード』
ヴェネツィア・ビエンナーレ2018で銀獅子賞を受賞し、世界から注目されるポルトガルの振付家が初めて日本に紹介された。前評判が高かったが、実際に期待を超えたインパクトがあり、舞台におけるナラティブの到来を告げる意味でも記憶に残る公演となった。ダンス、音楽、歌、身振りなどを構成した舞台は、ギリシャ悲劇に枠を借りた壮大なパロディで、酒と陶酔と舞踊の神ディオニソス(バッコス)に由来する狂騒を2時間以上にわたり繰り広げる。ここにもピナ・バウシュを経由したダンスシアターの現在を見る気がするが、アプローチは大きく異なる。奥行きが浅く横幅を強調した舞台は、人間存在の深奥を追求するより、出来事を叙事詩として語るのにふさわしい。
乱心した信女3人を含むコロスの面々は、メイクや表情を誇張し、潰したダミ声による歌、道具を男根に見立てる身振り、唇や舌や喉を鳴らしてふざける「歌合戦」など、飽くなき「ばか騒ぎ」に興じる。高潔や崇高に敢えて向かわないようにと意味の解体を図るパロディの極致と言えるだろうか。その一方で、舞台にはある種の秩序も感じられる。作品の大枠にはコロスとトランペット隊との対峙があり、配置や動線が視覚的・力学的な構図を作る。平面的な舞台と戯画的な身振りは、ギリシャの壺絵を彷彿させる。ここに音楽史や舞踊史、神話と演劇の歴史、人間の性と生の摂理など、様々な文脈が引き入れられ、ふざけた身振りや行為にも何かしら文化史上の参照がみとめられる。特に音楽劇と言っていいほど、レゲエなどのポピュラーミュージックからクラシックまで多様な音楽が用いられ、ディオニソスにまつわる芸術の豊穣が享受される。「牧神の午後」の振付が現れるシーンもある。
ジゼル・ヴィエンヌはレイブに、ベンゴレア&シェニョーはDubにと、どちらも音楽とダンスの流行や社会的なカルチャーから発想しているとすれば、マレーネ・モンテイロ・フレイタスがアフタートークで語ったのも、出身地カーボベルデ(アフリカの北西の島、旧ポルトガル領)での日常的な生活の中にある音楽とダンス・ショーの経験だった。現代の市民社会に根付いたラフでポピュラーな音楽と、ダンスの民俗や風俗、広範な文化史とその経験が、振付家たちのナラティブの源泉となっているのは興味深いことだ。
(10月21日、ロームシアター京都 サウスホール)
ロラ・アリアス「MINEFIELD―記憶の地雷原」
撮影:Takuya MATSUMI
提供:KYOTO EXPERIMENT事務局
撮影:Takuya MATSUMI
提供:KYOTO EXPERIMENT事務局
M-laboratory「いなくなる動物」
2018年11月10日(土)
テレプシコール(東京)
作・構成・振付・楽曲:三浦宏之 出演:三浦宏之、上村なおか
文:山家誠一 撮影:YASKEI
三浦宏之の主宰するM-laboratoryの新作「いなくなる動物」(作・構成・振付・楽
曲・出演 三浦宏之、2018年11月10日、東京・テレプシコール)は、観客の中の思
考(概念)」と「感覚」の間のことをいろいろ考えさせる公演だった。出演は三浦宏
之と上村なおか。
三浦によって全体が構成された舞台の展開は、大きな流れを感じさせ、大作といっ
た趣だった。三浦の訓練された身体の形や上村の動きは、それぞれ今でも記憶に残っ
ているという意味で、印象的だった。が、生で舞台を見ている時、もう一つ感覚が動
かなかった。
もちろん、舞台空間に引き込まれるようなシーンはいくつもあった。例えば、中盤、
舞台下手で三浦と上村が壁に寄りかかり気味で座っている場面。なぜそこが良かった
のか。多分、二人がそこに確かに在るという感覚を、身体が作り出す空気が作り出し
ていたからだろう。つまり、筆者の感覚は、そこの空間に引き込まれ、そこの空間と
一体となり、「その時」を筆者の身体の中に感じることが出来たということだ。感動
するとは、そういうことだろう。身体同士が作り出す見えない膨らみが必要なのだ。
(これは舞踏が好きな筆者の感覚に過ぎない)
もう一つ、この「いなくなる動物」の舞台で興味深かったのは、先に述べた「感覚
が動かなかった」ことにも一面では繋がるのだが、構成された舞台ではあっても、三
浦と村上、二人の動きや形がそれほど「揃っていない」ことだった。身体の形や動き
に振り付けされた強さが必ずしもある訳ではなく、かと言って、変化自在の身体同士
の即興でもない。中途半端な曖昧さがあった気がする。肯定的に言えば、その身体と
身体の流れの中の「隙間」が面白かったということだろう。
しかし、「いなくなる動物」の、筆者にとっての最大の刺激は、一連の身体動作の流れの中に、意味すなわち概念構成らしきものを見出した時に訪れた。四肢をぐにゃぐにゃ動かしている様子から、粘菌を連想し、次いで壮大な生命史をイメージしたのであった。それは観客である筆者の勝手な読み取りであり、表現者自身の思いとはあまり関係ない。関係はないのだが、一連の身体仕草の中から、筆者の感覚が取り出した形だった。それは生命史という概念構成=物語へと勝手に集約されて行く。不可解さの中を漂う思考が、あるイメージ=概念を掴んだ瞬間に、その日の公演の感覚的体験の全体を、その概念を要に組み立てて行く。それは体験を言葉にして行く、つまり思考して行く面白さでもあると同時に、不可解な不安が消えて行く詰まらなさの進行でもあった。このほとんど同時に起こる二律背反の感覚は発見だった。それは混とんの中から言葉が立ち現われ、それが世界を可視化すると同時に世界を固定化し、現実体験の生成力を奪い去っていくことと同じだ。つまり、表現の面白さは、分かる=分からなさの瞬間にあるということを、この舞台は体験させてくれたのだった。
最後にこの公演「いなくなる動物」でストレートに魅力を感じたのは三浦宏之の手になる音楽、音響だ。動物の唸り声や風の音、カラスの鳴き声と言った環境音、自然音に重ねられたピアノの単音による旋律は美しく、その暗さと抒情性によって身体空間のトーンを支えていた。
総じて、曖昧さの中から物事=意味が浮かび上がる二律背反の瞬間を体験させてくれた公演だった。以上、筆者が、「いなくなる動物」の作者のテーマとは全く別個に、三浦宏之と上村なおかの一連の仕草の中から感じたことだ。