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Editor's Eye

 孤独なダンスアーキヴィスト 
文:安田 敬 Kei Yasuda

コンテンポラリーダンスの発祥は?!ダンス も カフェ も ブルーマウンテン

1985年のオープン後、こどもの城にて「青山バレエフェスティバル」がスタート、ローザンヌ・バレエコンクール東京大会(1989年)の開催で我が国の新しいダンスの到来を予感させたのは青山劇場、円形劇場でした。同時期に我が国では初めて?芸術監督制を設けたスパイラルホールもオープン、青山通りには新しい時代の幕開きとなる劇場施設が誕生しました。

 この青山通りの歴史を見ると1958年には草月ホール(設計:丹下健三)が誕生し、60年代の輝かしいアーティスト、パフォーマーたちがアバンギャルドな作品を発表しました。当時として草月ホールは珍しい自主企画、シネマ、アニメ、ダンス、音楽など現代アートの発信基地でした。勅使河原宏が若い人の芸術育成のために地下ホールを開設、62年のイベントには米国からジョン・ケージとデビッド・テュードゥアを招聘、2年後マース・カニングハム舞踊団も参加、その後さまざまな企画には作曲家/武満徹、諸井誠、一柳慧、映像/松本俊夫、飯村隆彦、アニメ/久里洋二、真鍋博、柳原良平、音楽/渡辺貞夫、高橋悠治、高橋アキ、パフォーマンス/ヨネヤマママコ、土方巽、美術/オノ・ヨーコなど多くのアーチストのコラボレーション作品を上演。音楽ではコンテンポラリーシリーズなどの名称もあり当時の現代アートの先駆者でした。この流れが<利賀フェスティバル主宰者>鈴木忠志による80年代には「三井フェスティバル」にJ・C・ガロッタ、マギー・マランなどパリを代表する振付家たちが来日、上演したのです。当時この流れがヌーベルダンス!?と呼ばれたのです。

 またこの通りにはドイツ文化センター、カナダ大使館から勅使川原三郎の作品を90年代にいち早く委嘱したスターダンサーズバレエ団、他に松山バレエ団、牧阿佐美バレエ団(青山スタジオ)が並び、現代アートのワタリウム美術館、「こどもの城」とゆかりのある岡本太郎記念館、山海塾の事務所、さらにダンススタジオとしてベルコモの青山ヘルシースタジオ(その後スタジオ一番街へ)、何と現代舞踊協会の事務所もあり次代を予感させるダンス専門の講師たちが集まった日本ヘルス&スポーツ学院たちが華を添えていました。

 1990年代に入ると「こどもの城、青山劇場/円形劇場」がコンテンポラリーダンスの発信基地としてダンス界をリードします。アジア初のフランスの「バニョレ国際振付賞」のプラットフォームが円形劇場にてスタートし我が国の舞踊界を先導します。このコンクールから黒澤美香、山崎広太、伊藤キムなどがパリの本選に出場しました。さらに本格的に円形劇場にてアジア(香港、韓国、台湾の等)のダンサーたちが参加する「イースト・ドラゴン」など新企画が続々上演されました。そして今世紀に入り我が国では珍しいロイヤルの称号を冠とした<バレエ&ダンスを愛した>高円宮憲仁殿下記念ローザンヌ・ガラ、ダンス・ビエンナーレ・トーキョー(後のトリエンナーレ)、カナダケベックウィークなどを開催、劇場周辺にあるスパイラルホール、イメージフォーラム、青山ブックセンター たちがフェスティバルに参加、フェスティバル盛り上げ、地域社会の街全体が活性するのでした。

 1985年にオープンしたワコ-ル・アートセンター/スパイラルホールはあたらしい空間づくりを目指しました。当時では珍しい芸術監督制を適用し、第一回目の芸術監督は佐藤信でした。 「エスパース・アバンチュール(冒険空間)」と銘打ったシリーズを企画したのです。佐藤信は「ダンスの季節の女たち、黒沢美香、竹屋啓子、尾本安代&大塚礼子」の三作品を企画、ほかにクラシック、モダン、舞踏、民族舞踊などジャンルにこだわらず新しい創作空間を目指すシアターでした。その後芸術監督は蜷川幸雄、天児牛大が監督となりました。勅使川原三郎、山口小夜子、ダムタイプ等、海外からキャロル・アーミタージュ、プレルジョカージュ、フィリップ・ジャンティ、スーザン・マーシャルなどその時代を牽引していたアーティストの作品を上演したのです。

すなわちコンテンポラリーダンスの発祥の地は青山通りからといえるのではないでしょうか!

​協力:スパイラルホール

*こどもの城(中には青山劇場・円形劇場を有する)
 「児童の健全な育成を目的として建設された施設である。厚生省(現在の厚生労働省)によって1985年(昭和60年)

     11月1日に開館し、公益財団法人児童育成協会が運営していた。所在地は、東京都渋谷区神宮前5丁目。」
     2012年(平成24年)9月、施設の老朽化などのため閉館することが厚生労働省により決定され、2015年(平成27年)

     2月1日に閉館した。跡地には、首都災害医療センターが建設される予定であったが撤回された。(Wikipedia)。

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